こういう話はあんまり暴露しない方がいいのかも知れないけど、ぶっちゃけ、文章って「最初のつかみ」がダメだったら、大抵はもう本編もダメだと思うんすよね。
今回は、ワタシ流の「ブログの書き方のポイント」を伝授したいと思います。(あくまでも自由ネコ流です)
「文章が上手い」とか「文才がある」とか言われている人は、1行目、「書き出し」から、おろそかにするはずがない。いきなり入魂。
むしろ、書き出しに、全神経を集中していると言っても過言ではないと思いますね。
1行目でスベると、もう取り返しがつかないというか。
そういうことを誰からも教わっていないにもかかわらず、感覚的に理解しているんじゃないかと。
もっと言うと、
一番大事なはずの「書き出し」をおろそかにし、手を抜いているような人間が書いた文章の、本編が面白いはずがない
って思うんですよね、私個人としては。
(もちろん例外もありますけど、基本的には無いって話)
ちょっとそのへんを意識して、いろんな人の文章、読んでみてください。
「この人、才能あるな~面白いな~」って感じるような、センスを感じるような文章を書く作家で
最初の書き出しが
「どうも、◯◯◯(自分の名前)です!」
っていうパターン、おそらく、ほぼほぼ無いですよ。ありえない。
あと、本編と全然関係ないような、面白くもなんともない、全然興味をそそられないエピソードを最初に持ってくるっていうのも、自爆としか言いようがないというか。
だって本来、作家には作家のプライドがあるじゃないですか。
コラムニストなのかエッセイストなのか、肩書がどうであれ、「物書き」としてのプライドがある人は、自分の文章を「作品」だと捉えていると思うんですよね。
その作品の、もっとも重要ともいえる「ツカミ」の部分で
「どうも、自由ネコです!」
は無いだろうと。
だって、つかめてないもん。
掴めてないことに気づいてない時点でセンスない。
例えば
「どうも、村上龍です。本日のカンブリア宮殿、いかがでしたか?」
みたいな文章、あり得ないわけですよ。
村上龍が、こんな書き出しは、あり得ない。
龍のプライドが許すはずがない。
「どうも!ノーベル文学賞でお馴染みの川端康成です!いや~、トンネルを抜けたら雪がね、降ってたんすよね~」
とかも、絶対に無いから。
最初に、意味不明な文章とか、効果のない文章を持ってくる時点で、すでにセンスのなさを露呈しているようなもんなんじゃないかと。
そういうことに全然気付いてない人が書く文章が、読み進めていくとスゲー面白い、ってのは、基本的にはあり得ないんすよね。
一応、言っておくと「どうも!◯◯(自分の名前)です!」みたいなフレーズがダメだって言ってるわけじゃないんで、そこんとこ勘違いしないように
たとえばさ、ユーチューバーのヒカキンが、毎回最初に
「ブンブンハローYouTube」
って言うじゃないですか。
あれは、イイんです。有効なんです。
つかめているかどうかで言えば、メッチャつかめていますから。
視聴者のハートをがっちりキャッチできてますから。
実際、あのフレーズは、すでに市民権を得てますしね、いわば「軽い一発ギャグ」とか「流行語」とか、そういう方向の意味合いで、効果が大きいわけですよ。
誰かが「ブンブンハローYouTube」って言えば、「あぁ、ヒカキンね」ってなりますからね。
そういう意味では、ツカミとしては、完全に成功してるわけよ。
「どうも!ヒカキンです!」じゃ、誰も真似しないし、印象にも残らないけどね。
自分オリジナルの挨拶として、毎回、同じフレーズから始める、ってのは、アリなんですよね。しかもそれが大衆に認知されたとすれば、最高に効果絶大。
だから、
狙うんなら、そこを狙わないと、ただ意味のない、効果の薄いモノを「コンテンツの出だし」という一番大事なポジションに置いてることになっちゃうワケ。
あと、もうひとつね。
自分自身に「物書き」という自負があるかどうか?
ってのも、けっこう大きいと思うね。
「別に、作家とか小説家とかコラムニストとかライター目指してるわけじゃね~し、単なる日記ブログだよ」
っていう人なら、最初の一文に全神経を集中させる、みたいな必要は無いし、それはそれで全然問題ないわけよ。
あと、ウィキペディア的に、有意義な情報を発信していくことが目的、というブログの場合も、全然問題ないですね。(自己表現という意味合いが薄いので不問)
問題なのは、自分は物書きなんだ、とか、文章を書く人になりたい、とか思ってる人なのに、だらっと書きだしてるっていうケースの話ね。
なんだろうなぁ、動画で言うなら、
ホームビデオで家族の動画を撮影しているだけなら、最初のツカミも、起承転結も、何も要らないんだけど、
撮った動画を短編映画として、作品として世に出したいなら、ツカミは絶対に、魂込めて撮影しろよって話なんよね。
分かりやすい例を出そう。映画「インディ・ジョーンズ」は、最初のツカミがとんでもなく気合入ってる
私は、映画に関しても
「冒頭の15分がつまらない作品は、その後もつまらない。すなわちクソ映画」
という風に考えています。
実際、私の経験上、最初の15分クソ面白くないのに、その後、めちゃ面白い映画って、記憶にないです。
何故なら、たいていの映画監督は、おそらく映画学校などで「冒頭のシーンで客の興味を惹きつけろ」って教わると思うんですよね。
にもかかわらず、全身全霊、通常の150%のエネルギーを注いで作ったはずの最初の15分が全然面白くないのであれば、当然、その後も面白いはずがないんですよね。(もちろん例外もあるでしょうが)
ということで、教材としての「インディ・ジョーンズ」です。
え~~とね、本来で言えば、映画「インディ・ジョーンズ」のエピソードっていうのはですねぇ、
冒頭、インディが勤めている大学で、考古学の授業をおこなっている場面から始まっても、話としては繋がるわけです。(あとあと、回想シーンが入ることになる可能性は高いが)
インディ教授役のハリソン・フォードがシュッとした背広を着て、大学で講義をしている。
チャイムが鳴り、授業は終了。
するとそこへ、古くからの友人がやってきて、インディが以前から気になっていた「失われた財宝」に関する興味深い話を持ち掛けてくる…
みたいな、そういう場面から始めてもアリなわけです、話としては。
でも、それじゃ、冒頭のツカミとして、全然弱いんですよ。
観ている観客の度肝を抜く、目が離せない、そういう状況に持って行くためには、まず最初の15分で、「わー!」って思わせないとならない。
ということで、お手本中のお手本。
「ツカミ」ってのはこういう事を言うんだよ、って教えてくれます。
まず、何だかよく分からんけど、とにかくハラハラさせる。
「詳しい説明はあとだ!」
っていうスタンス。
最初に、「えっ!何!?何これ!」って観客に思わせて食いつかせる。
最初の15分で、いきなりジェットコースターに乗せて、初っ端からダブル・ループ!くらいの勢い。
一通り、観客の心に爪痕を残した後、おもむろに大学の講義のシーンが始まります。
インディ・ジョーンズのシリーズは、たしかほぼほぼ全部、このパターンですよね。
最初に、問答無用で、ド派手なアクション。
まず、観客のハートを鷲づかみにする。
つかんでから、ストーリーが始まる。
どうすれば効果があるのか、分かってるわけです。
ジョージ・ルーカスも。
スティーブン・スピルバーグも。
自分みたいな若輩者が偉そうなこと言って申し訳ないんですが。
まとめると…。ブログも「タイトルと最初の文章」で、かなりの部分が決まると思うんよね
タイトルが大事、って話は、過去にも何度か書いてますけど…。
実を言うと、冒頭の数行もメチャクチャ大事なはずなんですよね。
最初の一文、あるいは数行で、ハートをつかめるか。興味を持ってもらえるか。
読まれるか読まれないかは、大きく左右されるはずです。
少なくとも、私はそういう観点から観てる部分、けっこうありますし、おそらく「物書き」と言われるような人々の大半も、そう思ってるんじゃないかと思います。
タイトルを適当に付けて、書き出しも全然、気にしてなくて、なんとな~く、だら~~っと書いて。
それでいて「なぜ読まれないのだろう?」って言われても、そりゃ読まれないよとしか言いようがないというか。
そういうことを全然、気にしていなくて、
「ただ無心で書いてるだけで、めっちゃ読まれております」
っていう人は、ごく一握りの天才だけだと思うんよね。
・・・ということを考え始めると、せっかくの一行目を
「こんにちは!◯◯◯です!」
みたいな、特に効果のないワードで占領してしまうのは、非常にもったいないと思えるようになるんじゃないかと思います。
さらに言うと、そういうことを理解したうえで、あえての
「どうも!◯◯◯です!」
っていうのは、何かのパロディであるとか、それなりに事情や意味があって、やってるケースだと思いますね。
ただ漠然と、ってことは無いだろうと。
まぁそんなこんなですね、私なりの見解。
私は割と毎回、適当に即興で書いちゃってますけど、それでも、そんな私でさえも、タイトルと最初の数行は、意識して書いてます、って話でした!
地味に埋もれていた過去の名作(迷作)、発見した。