先日、アカデミー賞授与式での「ウィル・スミス・ビンタ事件」について書きましたが、結論的な見解を書く前にワタクシ自身が力尽きましたので、今回、完結編的な感じで「ビンタ事件」に関する話の続きを書きます。
もう少々お付き合いいただければ幸いです。(若干ひねりの効いた着地をする予定です)
ちなみに、【アカデミー・ウィル・ビンタ事件 前編】はこちら。
ウィル・スミスのビンタを擁護しがちなのはバカと貧乏人と日本人ってマジかよ…?【アカデミー・ウィル・ビンタ事件 前編】 - 自由ネコ
はい、すみやかに本題に入りまーす。
まずはこちらのnoteの記事をどうぞ。なかなか興味深い見解でした。「ウィル・スミスはなぜ許されないのか?」
アメリカでスタンドアップコメディアンは、「聖域」を守るという役割を担っている。その聖域とは「言論の自由」だ。
略
スタンドアップコメディアンは、アメリカ社会唯一の例外として「何を言ってもいい」という特権が認められている。たとえそれが差別的な言辞であっても、だ。
これ。この感じ。
ホントかどうかわかりませんが、もしこれが本当だとしたら、これはもう、ウィル・スミス、完全にアウトですね。
何をどう弁解しても、許されることはなさそうです。
日本で言うと、誰だろう。
いますかね?
特権的に、何を言っても許されるポジションって存在しますかね?
日本のコメディアンはよく謝罪させられていますからねぇ…。
しいて言うなら、「許されるキャラ」といえば、ちょっと昔のタケちゃんですかね。
ビートたけしさん。
30~40年くらい前かな、ツービートの「赤信号みんなで渡れば怖くない」っていうネタがありましたが。
ビートたけしさんは、既婚者ですが、若いおねぇちゃんと何やっても、誰からも咎められない、っていう存在ではありましたよね、かつては。今はどうなのか分かりませんけど。
最近は、タケちゃんの神通力も急速にその効力を失いつつあるような気もしますね。
特権階級の人ではなく、「ただの有名一流芸能人」くらいの地位にまで引きずりおろされちゃった感はあります。
時代がそうさせたのか、何なのか、よく分かりませんが。
はい、話を「ウィル・ビンタ・スミス事件」に戻しまーす。(もはやビンタがミドルネームみたいになってる)
アメリカ社会は例外的に、「何を言ってもいい」という聖職を作り、その人たちに「言論の自由を守るガーディアン」として役割を求めている。
そのガーディアンこそが、スタンドアップコメディアンというわけだ。その代わりに、スタンドアップコメディアンには必ず徒手空拳でいるという条件が課されている。組織に属しても、誰かと連帯してもいけない。必ず個人で、誰にも守られない危険地帯から、立ったままで言葉を発しなければならない。
中世の道化師や日本の幇間など、社会はしばしば何を言っても許される存在を意図的に設置した。「王様は裸だ」と言ってくれる人がいないと、困るのは社会の方なのである。
そして、現代アメリカではスタンドアップコメディアンこそ、その役割を担っている。彼らは、炭坑のカナリアのようなものだ。言論の自由が阻害されたら、真っ先に殺されてしまう。しかし、スタンドアップコメディアンは、殺されることによって、人々に「危険が迫っている」ということを伝える役割をも担っている。そういう命がけの仕事なのだ。
なるほどねぇ~、「炭鉱のカナリア」ですか。
クリス・ロックは「炭鉱のカナリア」であると。
だとすると、もう完全に、ウィル・スミスに勝ち目は無いですよ。
ウィルを許せば、次はもっとえげつない「大惨事」が起こるでしょう。
あ、あとね、アメリカでは「Fxxx」って、絶対に、絶っっっっ対に、言ってはいけない言葉らしいんですが、ウィルは生放送で、全世界に配信中に、何度も「Fxxx」を連発したらしい。おわった。ウィル、終わった。
ちょっと、いろいろなニュースをチラ見しすぎて、どこに載ってたのか分かんなくなっちゃったんですけど、ウィル・スミス、たぶんビンタの後だと思うんだけど、自分の席に戻ってからも、何度も「Fxxx!」って言葉を言ってたらしいね。
これも、日本人にとってはちょっと理解しにくいというか。
単純に「放送禁止用語みたいなもん」っていう風な説明だと、逆にむしろ間違えてると思うし。
twitterだったかな、アメリカに住んでる人が、
『子供の通っている学校で、一人の生徒が「Fxxx」と言った直後、すぐに校長室に連行されていったケースがあったよ』
みたいな話を書いててさ。
ちょっとね、何だろうな、日本だと「〇ね!」みたいな言葉に近いんかな、あるいは、それをぐっと凝縮して10倍にパワーアップしました、みたいな??
とにかく子供のころから「絶対に言っちゃダメ」って教わってるワードらしいのよ、Fxxxって。(実際にはみんな使ってるらしいが)
んで、これ、ウィル・スミスは生放送でガンガン言っちゃうっていう。
これは、友人知人も、会場にいた人も、テレビで見ていたウィル・スミスのファンのちびっこたちからも、思いっきりドン引きされちゃった可能性、けっこうあったんじゃないかな。
なかなか、ウィル・スミスを弁護するのも難しくなるというか。
あ、あとね、暴力よ。ビンタ。これも、日本とアメリカでは、捉え方が全然違うっぽいんだよね。
日本ではさ、いまだに、竹刀持ってたり、恫喝的な言葉を使ってる、部活の顧問とか、普通に生息しているじゃないですか(多分)
でも、アメリカでそれやったら、即、裁判沙汰らしいですよ。
「生徒や選手に何かを教えるための指導者による暴力ならいいよね?」って考えてる日本人、けっこういまだにいると思うんよね。頭の痛い話だけどさ。
でも、アメリカでは、絶っっっっ対にダメだってさ。「教育的愛のムチ」みたいな殴る側の理論は通用しない。完全にアウトらしい。
基本的には、どんな理由があろうとも、手を出しちゃダメ、手を出したら負け。
ここ、ここよね。この感覚よ。
前回の記事でも書いたけど、高学歴の人ほどウィルを批判する傾向がある、みたいな。
ある程度頭がよくて、何か、社会的に失いたくないもの(お金、地位、名誉とか)を持っている人々は、もしも手を出しちゃったら全部失っちゃう怖さを、認識して、生活してるわけなのよ、日常的に。
あ、あともう一個、思い出した。
「超スーパースターは、ジョークのネタにされることも仕事の一つ」っていう考え方。
これもさ~、日本人にはなかなか理解しがたい部分もありますよねぇ。
ちょっと前にテニスの大坂なおみ選手が、色々とありましたし、アメリカ国内でも、「スーパースターには何を言っても許されるってのはおかしくね?」っていう論調もあるんでしょうけどね~。
でも、ウィル・スミス自身も、自分自身がジョークのネタにされることは受け入れている、みたいなこと言ってたしねぇ…。
「ジョークにいちいち反応するのは本当のスターじゃない」みたいな感覚、アメリカだとけっこうあるんすかねぇ…?
疲れてきたので、締めくくります。
なんか、当たり前の、無難なオチじゃ面白くないんで、変な切り口で終わらせようと思います。
ウィル・スミスは、もろもろ承知の上で、ナゼ、どうして、あの場面でビンタしちゃったのか??私なりの見解。
先に言っておきますが、「へ~。こういう見方もあるんだな~」くらいのゆるい感じで受け止めていただければ幸いです。しょせん、個人ブログなんで。しょぼいエンタメです。
なかなか興味深い記事を見つけましたよ。
こちら。
あなたが知らないウィル・スミスの「裏の顔」 妻との複雑な絆、父のDV、息子の絶縁要求など【特集】 - フロントロウ -海外セレブ&海外カルチャー情報を発信
ウィル・スミスという一人の人間を知るうえで、なかなか興味深い情報が満載の記事なんですが、本当にゴリゴリに核心の部分だけ、抜粋しますよ。
アカデミー賞授賞式の数日前に出演した米CBSの番組『Sunday Morning』のインタビューで、DV家庭で育ったことに改めて言及し、父が母に暴力を振るう様子をただただ見ていることしかできなかった少年時代について、「僕は何もできませんでした」とつぶやいたウィル。
インタビュアーが「でも、まだ小さかったあなたには、できることなど何もなかったのでは? 」と擁護すると「子供の思考というのは、そういう風には働かないんです。僕は自分がスーパーヒーローになれると思っていました」と、自分を責め、非力さに落胆していたことを明かした。
ウィル・スミスは、なんと、アカデミー賞授賞式の数日前のインタビューで語っているらしいんだよな。
「少年時代、暴力を受けている母をただ見ているだけで自分は何もできなかった、という過去が、いまだにトラウマになっている」
みたいな告白をしてんのよね。(ひどいトラウマに苦しんだ話は元記事をどうぞ。かなり長い)
「痛めつけられている家族をただ近くで見ていただけの自分をいまだに許せていない」
みたいな話ですよ。
こんな話を、アカデミー賞授賞式の数日前に語ってんのよ。
はい、これどうですか。
自分の中のトラウマを払しょくするためには、どうすればいいですか。
今、目の前で、妻がジョークのネタにされて、不愉快そうな顔をしていますよと。
はい、私は、どうしますか。
あの時と同様に、少年時代と同様に
傷つけられている家族を、ただとなりで見ているだけでOKなんですか?
オレはまた、何もできずに、ただやりすごして、それだけでいいんですか?
・・・・・・・・・
いや、良くない!
いくしかねぇ!!
・・・・・・ってなったとしても、おかしくない話ですよね。
もしかするとウィルは、数日前のインタビューをあの時、アカデミーの会場で、思い出したのかもしれませんよ。
「傷ついている家族をただ近くで見ていただけの、少年時代の自分をいまだに許せていない」
こんな告白をした後に、
あの場で、ジョークのネタにされている妻をただ隣で見ているだけの自分でいられるだろうか?
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
これ、どうよ。
この切り口、着地、たぶん、なかなかレアでしょ。
以上、私なりの推測、妄想、見解でした。