宮崎駿監督作品、ジブリ映画の「紅の豚」を観ました。(何回目だろう?)
「主人公は何故ブタなのか?」「最後は人間に戻ったのか?」
このへんの疑問については過去に散々、語られてきたと思いますが、あえて斬り込んでみたいと思います。
ハヤオいわく。「すぐに原因と結果を明らかにしようとするなよ」と。
この記事は、あくまでも、私個人の、自分なりの解釈&妄想でございます。
散々ググって調べ上げて、答え合わせをしてしまえば「正解」を導き出せるのかも知れませんが、それじゃ面白くない、ということでね、あえて、自分なりにいろいろ考えてみた次第です。
スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーが「紅の豚」の絵コンテに、はじめて目を通した時に
「そもそもなんでこいつ豚なんですか?」
と質問し、宮崎駿監督に怒られたらしいですから。
すぐに原因と結果を明らかにしようとする、そういう姿勢に対して監督は、イラッとしたわけです。
おそらく、宮崎駿監督の中には、「紅の豚」に関してだけではなく、常に、いつでも、
「こっちはあえて、含みを持たせてるんだから、そういうことを軽々しく聞くんじゃねぇよ。」
という思いがあるんじゃないかと思います。
「そこは察しろよ」
とか
「各自で考えてみてよ」
という思いが、宮崎駿監督の中にあるんじゃないかと思います。
例えばね、映画「紅の豚」のキャッチコピーを思い出してみてください。
「カッコいいとは、こういうことさ。」ですよ。
宮崎駿の考える「男の美学」ですよ。
ハヤオなりのダンディズムですよ。
それを具現化したモノが「紅の豚」なんだとしたら、やはりね、
「なぜブタなのかって?そんな野暮なこと聞くんじゃねぇよ」
という思いが、無いはずがない。
「なんで?なんで?おしえて?」という安易な態度が、すでにハヤオの美学に反してる。
おそらく「聞くだけ野暮」なのである。
だから私は、しつこくググるのを控えようと思いました。
ハヤオのメッセージを受け取りました。
すなわち、自分なりにアレコレ考えてみようと思います。
はい、前フリがずいぶんと長くなりましたが、いよいよ本題に入っていきます!
まず、身も蓋もない話をひとつ。『突撃!アイアンポーク』っての、知ってます?
自分なりの妄想&考察に入る前に、非常に事務的に、ロマンもへったくれもない感じで言っちゃうとですね、主人公がブタな理由って、こういうことだと思うんです。
ウィキペディアによると、当初は『突撃!アイアンポーク』という作品がアニメ化される予定だったと。
戦車に乗ったブタが主人公。
(おそらく、人間が戦車に乗るのは、あまりにも「THE戦争」なので、重たすぎると考えたのではないか?)
んで、その作品が、もろもろの事情で頓挫してしまったと。
そして代案として『紅の豚』を作ることになりました、って話。
「戦車に乗った豚」が「飛行艇に乗った豚」に。
結局、その流れなんじゃないかと思います。
深い意味など、実は無くて。
例えば、『煙突描きのリン』という幻の作品があるそうですが。
この作品は結局、映画として完成しなかったわけですが、そこに登場するはずだった主人公の「リン」は、『千と千尋の神隠し』で、油屋で働く脇役として登場していますよね。
なんというか、ジブリには伝統的に、日の目を見なかった主役級のキャラクターを成仏させてやる、という気持ちなのかどうかわかりませんが、形を変えて、何らかの役で次回作などに登場させる、という文化?があるのかも知れません。
おそらく、宮崎駿監督も『突撃!アイアンポーク』の構想を練っているうちに感情移入していったでしょうし、愛着も湧いていたはずです。
当初は当然、未完成に終わるとは思っていなかったでしょうから。
それが、何らかの事情で、企画倒れとなり、お蔵入りになってしまった。
「戦車に乗ったブタ」の話はナシになってしまった。
さて、どうしましょうか。
それなりに思い入れのある「ブタ」。
次回作に…ブタ…登場させたいなぁ…的な?
それと、もう一個。そもそも、宮崎駿監督は、自身をイラスト化する際に「ブタ」として描くことがあるそうな。
ようするに、ブタってのは、どこかで、宮崎駿監督の「自画像的な存在」「分身」なんだと思いますね。
たしか、「紅の豚」は自分のために作った、みたいなことも言っていたように記憶しています。
ある意味、なんというかな、自慰行為的な?
そういう側面、あるんじゃないかと思います。
主人公のポルコは、ハヤオが思い描く「本当にカッコいい男」なんだと思うんですよ。
理想の男性像。
それを、本当に外見まで「男前」に描いちゃうってのは、なんか気恥ずかしいし。
完璧にキメキメじゃ、むしろダサい。
どこかでハズしがあるからこそ、カッコいい、って感覚も、ハヤオの中にあると思うんですよね。
「外見はブタ。なのにカッコいい」
そこにしびれるあこがれる。
そういう側面もあるんじゃないかと思います。
はい、あんまり夢と希望の無い話をしてしまいましたが、ここまでは、所詮、ウンチク。知識に頼った味気ない考察に過ぎません。
ここから先は、既成事実とかあんまり気にせずに、もうちょっとロマンあふれる話をしたい。
少なくとも、ポルコは、ブタになる魔法を自分で自分にかけた。そこはハッキリしている。では何故そんなことを?
私ねぇ「ポルコは誰に魔法をかけられたんだろうな?」って考えながら「紅の豚」観ていたんですけどね、
結局、
「いや、これ、誰かに豚にされたんじゃなくて、自分から豚になったんじゃね?」
って思ったんですよね。
んで一応、確認してみたんだけど、やっぱそこはハッキリしてるみたいで。
ポルコは、自分で自分に魔法をかけた、という設定になってました。
ポルコ・ロッソ(Porco Rosso) / マルコ・パゴット(Marco Pagot)
豚の姿に身をやつしている理由は作中では明らかにされないが、戦争で友を失った悲しみや国家への幻滅が示唆されている。設定では「自分自身に魔法をかけた」とされているが、魔法のシーンは描かれておらず、登場時点で既に豚人間の姿になっている。
そうなんです、嫌々ブタにされたんじゃなくて、むしろ率先して自分からブタになってんのね。
もっとハッキリ言っちゃいましょうか。
きっと「人間であることに嫌気がさして、自分の意志で人間を辞めた」んだと思うんですよね。
だから、
ポルコは人間に戻りたいとは思ってないんですよ。
人間に戻れたらハッピーエンド、とか思ってる人がいたら、それは間違えだと思いますね。
「豚よりも人間の方が良い」っていう発想自体、間違えてるし。
例えばそういう「人間様」の傲慢さが嫌で、ポルコは人間を辞めたと言っても、あながち間違えてはいないはず。
人間界、人間社会に、嫌気がさしたんですね、ポルコは。
ポルコは、
もう、戦争したくないんです。
殺し合いをしたくないんです。
仲間が死ぬのを見たくないんです。
愛国心とか。
「お国のために死んできます」とか。
ファシズムとか。
貧富の差とか。
まっとうな人間が働いても働いても楽にならない社会の仕組みとか。
とにかく、なんかもう、そういうの全部、嫌になったんでしょう。
人間のままなら、
イタリア国民のままなら、
空軍のパイロットとして、戦争に参加しなくちゃならない。
国民の義務とか、愛国心とか。
ポルコはそういうの、全部チャラにしたかった。
豚なら「国民」と見なされずに済む。
自由になれる。
自分のためだけに生きることさえ許される。
そう思ったのかも知れません。
ちなみに、
ポルコが、人間を辞めたかったのは確かだとしても、豚になりたかったかどうかは定かではありません。
もしかすると、犬とか、ゴリラとか、大空を舞うカモメとかになりたかったのかも。
でもまぁ、結果、豚になっちゃったんですけれども。
「豚」っていうのは、おそらく、「愚かな存在」とか「軽蔑されるに値する存在」みたいな意味合いを暗示していると思うんですが、
もしかすると、人間だって、一皮むけば「豚」みたいな存在なのかも知れませんね。
戦争して。殺し合って。奪い合って。
表面上は、人間の皮を被って利口そうに振る舞っているけれど、実際には決して賢くなんかない。愚かだ。愚かな生き物だ。
人間は、いや、人間のように見える奴らは、人間の皮を被った豚でしかない。だったら、オレはもう、人間の皮を被った豚なんて辞めたい。もう、ありのまま、豚のままの方がマシだ…。
ポルコはそう思ったのかも知れません。
その絶望的で悲痛な想いが、ポルコ自身に豚になる魔法をかけたのかも知れません。
ある意味、哲学者のソクラテスが言うところの「無知の知」的な。
自分がバカであることに気づいていないバカよりは、
自分がバカであることを知っているバカの方がまだマシ、っていう。
・・・・・・・・・
まぁ、こういうのはね、あんまり「種明かし」とか「ネタばらし」とか、しない方が「粋」なのかも知れませんね。
「野暮なこと聞くな」ってハヤオに怒られちゃう。
あ、あとちなみにね、最終的にポルコは人間に戻れたのか?って 話なんですけど、一時的に人間の姿になることがあったとしても、基本的にはまたブタに戻るようです。
こういうのは、曖昧なままにしておいた方がいいような気もしますが、宮崎駿監督本人が、言っちゃいましたからね。言わない方が面白いのにね~。
さて、そろそろ〆ましょうか。
紅の豚のエンディング・テーマ、これがまた泣けるんだ…。どういう訳か、涙が出るね。
作詞・作曲・唄 - 加藤登紀子
「時には昔の話を」
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