先手必勝ですよ。死なれる前に死ぬ。
なんかこう、坊さんのお経を聴きながら、そう思っちゃったんだからしょうがナイ。
心の整理がつかずにブログを書けませんでした…と言いたいところだが…
いや、実際ね、ブログ書こうとか、そういう心境になれなかった、ってのもありますしね。
あと、なんだ、急遽、呼び出されて、泊まり込みでさ、ああだこうだとか、
黒いネクタイがないぞーとか。
今日に限って安いサンダルを履いてたーとか。
いろいろとイレギュラーなことが発生して、ルーティーン、ガタガタになっちゃったりして。
「みんな集まったんで寿司の出前でも取りましょう」、みたいなことになって、若干高そうな寿司を目の前に出されたら、基本、必要以上に食うじゃないですか。
ラクダのコブじゃないけど、貯めこんでおこうって気持ちが芽生えるじゃないですか。
それで、食べすぎて気持ち悪くなったりするじゃないですか、ねぇ、みなさん。
結局ね、どういう切り口でブログに書こうかな…って考えあぐねているうちに、細かいこと、どんどん忘れちゃってんのよね。
「あれっ?何を書こうと思ってたんだっけ?」ってなってんのよ。
んで、自分の中で、強烈に覚えていることと言ったら、
「先に死んだもん勝ちだな」
っていう感覚ね。
薄れゆく記憶の中で、唯一、ハッキリと覚えている感情。
坊さんが、モクギョをぽくぽくぽくぽくとリズミカルに叩きながら、謎のお経を読んでる時にさ、思ったのよ。
「まだ終わんねぇのかな」
って。
「こんなこと、意味あんのかな」
って。
いや、違う、そういう話じゃない。
私はねぇ、
「人間ってある程度しっかり生きた後は、すみやかに去っていった方がいいんじゃねぇか」ってね、そういうふうに思っちゃったんですよねぇ…。
故人は、生前「延命治療なんて冗談じゃない!」って言ってたのに、死の前の数か月、チューブに繋がれてた
「チューブに繋がれて生きるなんて冗談じゃない。まっぴらピラスケ」
みたいなこと、豪語してたんだけどね。
でもさ、ある時、死に直結しないと思われる病気で、救急車で運ばれたらしいのよ。
あとで聞いた話なんだけど。
救急車の中で、家族から「念のため聞くけど、万が一、死ぬ死なないの状況になった場合、延命治療しなくていいんだね?」
って確認のために聞かれたらしいのよ。
んで、その時にさ、
「やっぱ死にたくない~!延命治療、お願いします!」
って、全面撤回したらしいんよね。
・・・・・・・・・
こんなもんか。
人間なんてこんなもんか、って、私はちょっとビックリしたというか。
んで、そういういきさつがあったので、実際に頭がボケて、寝たきりになったあと、本人の意思を尊重するってことで、チューブ生活ですよ。
寝たきりで、チューブで酸素、点滴で栄養、みたいな。
本人があれほど嫌がってたライフスタイル。
点滴で栄養補給しつつ生きながらえるのとか、めっちゃ否定的だった人なのに、いざそういう状況になったら、チューブ生活、受け入れちゃうんだなーって。
人間なんてララララララララーだなーって。
ひるがえって、自問自答してみる。
自分だったら、どうするだろうか。
ジタバタせずに死を受け入れることができるだろうか。
最後の最後、痴呆で頭がボケていても、自分でご飯が食べられなくても、病院のベットで寝たきりでも、それでもまだ「生きたい」って思うんだろうか。
生に執着するんだろうか。
私は「明日死んでも悔いが残らないように今日を生きる。」そういうふうに心がけて生きてきたつもりだが…
以前もちょこっと書きましたけれども。
ある時、天使なのか悪魔なのかが目の前に現れてさ。
「はい、お前の命はあと1週間でオ・ワ・リ ♪」
って言われたとしてさ。
その時に、ジタバタせずに
「了解 (''◇'')ゞ!お先に失礼します!」
って言って、親指を立てたまま煮えたぎる溶鉱炉に沈んでいけるか?が、試されていると思うんすよね。
※画像はイメージです
映画「ターミネーター」の一場面より、伝説的名シーン。
ぶっちゃけた話、この年齢になるとさ、もう、「どう生きるのか?」よりも「どう死ぬか?」の方が、大きなテーマだったりする訳ですよ。
特にこれと言ってやりたいことがあるわけでもないし、
何かやり残した、でっかい夢があるわけでもないし。
何もないんですよ。
正直、惰性で生きてるだけですよ。
慣性の法則にしたがって、今日も生きてるだけなんでね。
一昨日も生きた、昨日も生きた、だから今日も生きる、くらいの薄い動機しかない。
これでいいと思ってるし、この先もこうして生きていくだけッスよ。
いつまでたっても欲張ってたら、
いつまでたっても死ぬための準備は整わないンすよ。
どこかで、満足しなきゃならない。
どこかで、もう存分に生きたよと、納得しなければならない。
私の場合はもう、かなり自分勝手に生きてきたし、
出来る範囲で、やりたいことはいろいろやれたし。
もう思い残すことはない、っていうくらいには、好きに、自由に、やらせてもらったと実感しておりますよ。
今以上のナイスな人生が、選択肢として有ったとは、なかなか考えにくいし、これはこれで、よかったんじゃないかなって。
(たぶん、どっちの選択肢を選んでいたとしても、ロクな人生じゃない)
今までの人生を振り返ってみても、今が一番楽しいし、自己ベスト更新中みたいなもんだからさ。
ありがたい話ですよ。感謝感謝ですよ。
ってか、肝心な話、してなかったな。
「先に死んだもん勝ち」って話。
やりたいことやりきったなら、無駄に長々と生きなくてもええんじゃないか?
10代、20代で死ぬとかなると、「おいおい、ちょっとまだ何もやってねぇよ」って話になりますけど、
大抵のじいさんばあさんの場合、90歳で死んでも100歳で死んでも、あんまり変わらんと思うわけですよ。
歴史に名を残すような人物なら別ですけど、大抵の、そのへん歩いている一般ピープル的な老人なら、なんつーかな、どのタイミングで死んでも「誤差の範囲内」みたいな感じだと思うんよね。
そんで、アディショナルタイム的な、おまけの人生、ロスタイムに突入したあとは、
「先に死んだもん勝ち」のような気がすんのよね。
例えばさ、ここに仲良し4人組がいたとしよう。
偶然にも有名ロックバンドのメンバーと似たような名前の4人組です。
名前は
ジョン、
ポール、
・・・
・・・
・・・
リンゴ、
・・・
・・・
・・・
・・・
ミカン。
この4人が、なんつーか、腐れ縁で、何十年もつるんでいたとしましょう。
若い頃は暇を持て余してバンド組んじゃったりしてな。
全然、売れないバンド。
クイーンのコピーバンド。
んで、
ジョンとポールが時々殴り合いのケンカ始めちゃったりして。
あとあれだ。
いわゆるサークルクラッシャー、ヨーコの存在な。
ヨーコが彼らの前に現れて以来、チームの和が乱れまくり、みたいな。
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
いや、そんな妄想はどうでもいいんですよ。
脱線するにもほどがある。
クリスチャン・ダッセン。(イルカの絵で荒稼ぎ)
話を元に戻す。
ジョン、ポール、リンゴ、ミカン、この4人がそろってジジイになったとしてさ。
「はい~、ジョンが死にました~」
ってなった時に、ポールとリンゴとミカンは、ジョンのお葬式に出席しないとダメじゃないですか。
参列者、3名。
んで、次に
「はい~、ポールも死にました~」
ってなった時には、リンゴとミカンが、ポールのお葬式に出席しないとダメなわけよ。
参列者、2名。
んで、その次に
「はい~、リンゴも死にました~」
ってなった時は、お葬式に出席するのはミカンだけですよ。
参列者、1名。
ミカンは、香典を3回、包んでんのよ。
一番先に死んだジョンは、香典、一回も出してない。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
これ、ジョンの圧倒的大勝利じゃないっすか?
もっと言うと、ジョンの香典を根こそぎ持って行ったヨーコが大勝利かも知れませんが。
さらに言っちゃうと、ミカンが死んだ時、参列者ゼロよ?
悪友のジョンもポールもリンゴも、すでに地獄で待ってますからね。
誰も香典、包んでくれない。
これ、悲劇じゃないですか?
ミカンは3回、香典、包んでんのに。
自分は誰からももらえない。
うわー、これきっついわー。
死んでも死にきれないわー。
・・・・・・・・・
お分かりいただけただろうか?
長生きすりゃいいってもんじゃないのである。
金銭的な話だけじゃないですよ。
友だちが、ひとり、またひとりと死んでいくのを、ず~っと見届けないとならんわけですよ、一番長生きな人はさ。
当たり前の話だけどさ、
長生きな人は、自分よりも短命な人の死を、ひたすら見届け続けなければならないわけよ。
そして、同期、同世代、幼馴染とか、昔からの友人知人を全部失ってからも、ずっと生き続けることの虚しさ、しんどさ、哀しさを味わい続けながら、生きるってことなのよ。
長生きして同世代がみんな死んでも、若い世代と仲良くやって、新しい人間関係を構築すれば問題なし!
って考える人もいるかも知れないけどさ、おそらく現実的にはそんなに簡単な話じゃないと思うんよね。
分かりやすく言うと「世代間ギャップ」っつーのかな、そういうのって、簡単には埋められないと思うんよ。
演歌しか聴かないし、テレビは水戸黄門の再放送しか観ないっていう老人がさ、ナウなヤングと仲良くできますか?っつー話なのよ。
ヒップホップ聴きながらタピオカすすってるパリピと、寝たきり老人のコラボとか、なかなか難しいと思うんですよね。
例えば、沢尻エリカと田代マーシーの対談とか、かみ合うと思いますか?
世代が全然、違うじゃないですか。
いや、でも、同じ話題で意気投合しちゃったりするのかな…。
だっふんだ!
・・・・・・
こんな〆かたでイイのか…?
私の場合、人生の最後に、美しく散るのは無理そうです…。
(コミカルに散る)
私の人生観というか、死生観。