『ヨーコさんの“言葉” 』っていう番組、知ってます?
たった5分間だけの、超~短いNHKの番組。
これがねぇ…肩の力が抜けていて、非常~~に理想的というかな、
ぶっちゃけて言うと「こういうふうにブログを書きたい」って思っちゃう。
私にとっては「お手本」にしたいコンテンツなのです。
何気ない日常の中に何を見るか。当たり前に見える風景のどこをどう切り取るか。結局、最後はその人の人間力?みたいなものなんだろうな。
NHKの番組『ヨーコさんの“言葉” 』は、なんというか、ヨーコさんが日常で感じた、いろいろなことを綴ったエッセイって感じの内容なんだけどさ。
(ちなみに「ヨーコさん」は、『100万回生きたねこ』で有名な、絵本作家・佐野洋子さんです)
これがね…自然体でいいんだよな…。
自分を偉く見せるとか、賢そうに見せるために難しいことを言うとか、そういうの全然ないわけ。
なんだったら、ヨーコさんのしょ~もない日常も、平然とありのままに書き綴ってしまう。
ここなんだよな。
凡人には、これができない。
例えば、ブログ書いている人なら分かると思うけど、
「あっ、このエピソード、しょ~もないな」
って自分自身が少しでも感じてしまったら、そのネタは大抵はボツになるわけですよ、お蔵入りです。
そしてもうひとつ。
何を「しょ~もない」と感じるかは、自分次第なんだよなぁ。
ここなんだよね、重要なポイント。
例えばさ、例えばですよ。
散歩してる時に、道端にたんぽぽが咲いていたとしてさ。
大抵の人は別に何も感じないはず。特筆に値するエピソードとは感じられない。
基本的には完全にスルー。
しかし、
よ~く目を凝らして見ると、たんぽぽはアスファルトを突き破るようにして生えていて、その姿に「生命の息吹を感じる」という人もいるわけですよ。
この感じね。
道端のたんぽぽに限らず、人生のありとあらゆる場面において、「どうでもいいこと」のようにも思えるし、見方を変えれば「どうでもよくないこと」のようにも思える…っていう状況ってめちゃめちゃあると思うのよ。
その人が、日頃、「何を」、見ているか?
って事だと思うんだよな~。
その人が、何に「美」や「価値」を見いだしているか?
ってことになってくるんだよな、突き詰めれば。
ちょっと話が変わるけど、ミゾイキクコさんのツイッターを見た時にも、同じような事を思ったんだよなぁ。
前に書いたんだけどさ、ミゾイキクコさんのこと。
知らない人はぜひ読んでほしい。
ミゾイさんは現在、フォロワー数が約9万人の、いわゆるアルファ・ツイッタラーなんですけどね、最初に私が見たミゾイさんのツイートがコチラ。
↓
頂いた野菜。 pic.twitter.com/53Nvc0hVs6
— ミゾイキクコ (@kikutomatu) 2016年7月14日
なんか、私はすごくいろいろと考えさせられたわけ。
例えばね、もしも自分なら、近所の人からナスとキュウリをもらったとして、それを「特筆に値すること」と捉えられるだろうか?
って。
わざわざツイートするほどの価値ある出来事だと感じることができるだろうか?
って。
まず、そもそもの時点で、ミゾイさんが見ている世界と、私に見えている世界とでは、根本的に何か「あたたかさ」とか「やさしさ」とか、よく分からないけれど大切な部分が、違うんじゃないか?って気がしたんだよね。
人生において
何に「意味」を見いだしているのか。
何に「意義」を見いだしているのか。
突き詰めていくと、それぞれの人が持っている「人間としての魅力」っていうのは、そこから生まれるんだろうな、って思うんだよね。
隣人からキュウリをもらえるというのは、実を言うと、そこに至るまでの隣人との関係性さえも表しているわけで、長い間、ず~~っと円満な近所付き合いが存在していたことの証明でもあるわけですよ。
ちゃんと背景があるわけ。
ある日突然、ナスやキュウリが忽然と姿を現したわけじゃない。
ちゃんと、そこには理由があって、ドラマがあるわけ。
そこにまで思いを馳せることができれば、見えてくる「意味」ってのがあるわけです。
細部にまで目を凝らす、ってのはそういうことなんじゃないかと。
私は時々、そんなことを思うわけです。
ここまでの話になんとなく共感できた、というかたには、ぜひ、映画「この世界の片隅に」を観てもらいたいです。
「何気ない日常の中にしあわせはある」…その事を気付かせてくれます。
ハンカチ&ティッシュ必須。
私の中ではネコデミー大賞受賞作品。
「脱線」と「軌道修正」が織りなす愛と哀しみのタペストリー。それがこのブログです。『ヨーコさんの“言葉” 』に話を戻しましょう。
NHKの「どーがレージ」というページから、『ヨーコさんの“言葉” 』の動画を全話、観ることができます。(全部で50話のようです)
どのエピソードもたった5分なので、お手軽!
↓
ちなみに私が先日、偶然見かけたのがコチラでした。
第14話の後半の残り1分30秒ほどしか観れませんでしたが、それでもいろいろ考えさせられました…。
第14話は「腹が立っている時は・・・」。
ヨーコさんは、「気分転換など自分でするものだと思っていない。あちらからやって来る。ペロリと切手をなめる事を考えるとうれしくて元気よく起きてしまう。このペロリも来るところまで来た感じで昨日は自分に手紙を書いてしまった。切手ペロリに飽きてしまっても心配しない。ほんのつまんないことが又向うからやって来てくれて、それと手をとり合って元気よくやっていきたい」と語ります。
<文>佐野洋子 <絵>北村裕花 <語り>上村典子
今、14話を、上記のリンクから5分間、全部通して観ました!
『ヨーコさんの“言葉” 』は、ネットで全編、観られます。
ありがたいです。
14話の中で、ヨーコさんは、偶然見かけた綺麗な切手を購入し、じっと眺めているうちに使用したくなり、特に伝えたいことがあるわけでもないのに、あちこちに手紙を書き始めます。
切手をペロリと舐めて貼る。これが楽しくなっちゃう。
そして、同じ家に住んでいる息子に、わざわざ手紙を書くくだりがあるんです。
ちょっと意味が分からないじゃないですか。
無駄と言えば無駄。
だが、そこがいい。
大切なのは、そう思えること。
無駄を無駄だと切り捨ててしまえばそこで試合終了です。
侘びも寂びもない。
ミニマリズムなり、断捨離なり、もったいない精神なり、そういった正論っぽいポジションから見れば、ヨーコさんの「切手ペロリ」は愚の骨頂かも知れません。
必要のない切手を購入し、口頭で伝えることが可能な家族へ手紙を出す。
言ってみれば無駄な行為、お金と時間と労力がもったいない。
しかしね、
人は皆、矛盾を抱えて生きているんじゃないでしょうか?
それでいいんじゃないでしょうか?
なんつってね。
決して聖人君子の名言ではない『ヨーコさんの“言葉” 』は、滑稽で、どこかバカバカしく、堂々としているけれど、何かが間違えていそうで、だからこそ、何とも言えない、やさしさや、安心感がある…のかも知れません。
本当はね、そういうブログを書きたいんですよ、私は。
でも、やはり何かがまだ足りていないんでしょうなぁ。
それは人生経験なのかも知れないし、違うのかも知れない。
ただそれはきっと、人間の器の問題になってくるような…。
どこかで、「もっともっと」と欲張っているんでしょうなぁ。
もっと面白く。もっと役に立つ。もっとアクセス数を稼げて、もっと稼げるブログを。
「もっと良いブログを」という気持ちが何かの邪魔になっているのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。
正直に言うと、全然分かんない。
そんなことを頭の片隅で思っている間は、『ヨーコさんの“言葉” 』のような文章は書けないのかも知れないし、
近所からナスやキュウリをもらっても、どうする事も出来ないのかも知れない。