以前、偶然通りかかった村で、奇妙な風習を目にしたことがあります。
村の中高生がみんな、自転車のハンドルを限界まで上げ、サドルを限界まで下げて、乗っているのです。
おそらく、その村の中では、普通のスタイルでチャリに乗ってると、仲間外れにされてしまうのでしょう…。
控えめに言ってクレイジー。
でも、多かれ少なかれ、どこの村でも、どこの町でも、どんなコミュニティでも、ヘンテコな風習や決まり事って、あると思うんだよね。
「人のチャリを笑うな」ですよね。
異様な光景でしたけど。
駐輪場とか、止まってる自転車が全部、「ハンドル激上げ、サドル激下げ」っていうスタイルなんすよね。
えっ?なに?学校指定?
サドルを下げなきゃ死ぬの?
バカなの?短足なの?
村のヤング、全員、めっちゃ足が短いのか?
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っていう。
これさぁ、実は、あるあるですよね。
中の人はその異様さに気づいていないけれど、よそのコミュニティから来た人にとっては、確実に、クレイジーに見える風景ってありますよね。
たとえば日本の満員電車とか。
あんなの狂ってるとしか思えない。
おかしいって、マジで。
沖縄には「まーめー問題」ってのがあるらしいな。真面目な子は、みんなからバカにされてしまうっていう、地獄みたいな風潮。
以前、「月曜から夜更かし」だったかな、テレビでやってましたけれども。
真面目な子や、頭のいい子は、「まーめー」って呼ばれて、バカな子たちからバカにされてしまうらしいんよな。
だから、真面目な振る舞いや、頭の良いところを、極力、人前では見せられないっていう、意味不明な空気が漂っているらしくて。
ちなみに、番組で調査したら、その「まーめー問題」が原因なのか知らんけど、半数以上の子どもたちは、自分の家の住所を正確に書けなかった、って。(うろ覚え)
「住所も書けないオレ、カッケー」なのかどうか、よく分からんけど、とにかく、真面目じゃない感じって、価値があることらしいんよね。
以前さ、何かで読んだんだけど、本州の大学の先生の話だったかな。
沖縄の大学に出向いたときに、ビックリした、っていう話。
教室に入ると、電気がついてなくて暗かったんだって。
んで、「あれっ?学生が誰も来てないのかな?」って思って、電気をパチッと付けてみたら、けっこういるわけよ、学生たちが。
ちゃんと座って授業を待ってるワケ。
んで、
先生が、あとで学生の一人に聞いてみたんだって。
「なんで電気をつけないで、暗闇の中で待ってたの?」って。
そしたら、
「もしも教室の電気をつけたら、その学生は、みんなから『まーめー』だと思われてしまうから、誰も電気をつけることができないのです」
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いやいやいや…たかが電気のスイッチだぜ…
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これは闇が深いぞ…。
沖縄の労働者の所得が低いのは、沖縄の経営者が給料を十分に支払わないからだ。しかしながら、経営者だけが悪者かといえば、ことはそれほど単純ではない。沖縄の労働者はまるで自分から貧困を選択するかのような行動をとりがちなのだ
以前私が沖縄でホテルを取得して経営を始めたとき、非正規雇用者の多さに驚き、約100名の非正規雇用者の中から特に有能な十数名を選んで、正規雇用への切り替えを提案したことがあった。想定外だったのは、多くの従業員がこれを辞退してきたことだ。私は、昇給・昇格の機会を提示されて、それを断る従業員が存在する、という事実に面食らった。
沖縄は「優しい」社会だと言われる。コンビニで待たされても怒らないし、レストランでぞんざいな仕打ちを受けてもクレームする顧客は少数だ。不注意運転に激しくクラクションを鳴らすことも少ないし、待ち合わせをすっぽかされても嫌味のひとつも言わない。友人に貸したお金が返ってこなくても催促しないし、ATMの順番待ちの列に人が割り込んでも、声をあげる人の方が少ないだろう。
「クラクションを鳴らさない」穏やかで優しい人柄の裏側には、「クラクションを鳴らせない」というもう一つの理由がある。事情がどうであれ、声をあげる人物に社会的な圧力がかかるからだ。
約5年間で千件を超える証言を集めたが、その中に彼らの苦悩が込められているように思われた。
「誰も意見しない中で、意見を言えば『できるじらー(優等生ぶっている)』と言われる」
「バイト先で、英語が喋れることが知れるといじめられるので、ひた隠しにしていた。ある日、外国人のお客様が困っていたので、つい英語で橋渡しをしてあげた。それ以後気まずい雰囲気が漂うようになって、間もなくそのバイトを辞めた」
「留学を目指して、英語の勉強に必死で取り組んでいた時期がある。すると『先生に気に入られようとしている』『頑張っている感だしてウザい』と言われ、すごく傷ついた。私にとっても、私の友人たちにとっても、こういう経験は日常的で、珍しくない」
さらにこんな一文をレポートに書いてくる学生もいた。
「自分らしく生きろ、新しいことに挑戦しろ、と樋口先生がきれいごとを言えるのは、本土出身者だからだ。沖縄で生まれ育った自分たちがどれだけのしがらみの中で生きているか、その立場になって考えてみたことがあるのか、と言いたい」
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こんな話、知っちゃうと、沖縄…。
旅行で行くのは良いけど、住むのは…ちょっと…きつそうだな…
っていうか、そもそも今回は、沖縄について書こうと思っていたわけではなかった。
自分のスタイルと、所属しているコミュニティのスタイルが、フィットしなかった場合、どうすれば良いのか?って話。
冒頭で紹介した、「チャリのサドル激下げ村」の話に戻しますか。
たとえばさ、もしも自分が「サドル激下げ村」に住んでいた場合、どうしますか?って話。
「サドル激下げ村」で「サドル上げ」なんてしてたら、村人たちから仲間外れにされます。
村八分ですよ?
回覧板が回ってこなくなります。
陰で近所の人からグチグチ文句を言われます。
挙句の果てに、留守中に何者かに放火され…
・・・・・・
考えただけでも恐ろしい。
村のおきてに従わなければ、それ相応の報いを受けることになるのです。
・・・・・・
「自分は、サドル激下げ村に住んでいるけど、どうしてもサドルを上げたい」っていう場合、どうすりゃいいのか?っていう問題について考えてみたいと思います。
大雑把に言って、問題の解決方法は3つあります。
ひとつは、自分自身が妥協して、信念を曲げてまで、自分のチャリのサドルを激下げて乗る。
もうひとつは、村人全員を説得する。「サドル激下げ教」の信者たちを改宗させる。
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どうですか。どちらの道を選んだとしても、いばらの道ですよ。
ゆるくないですよ。しんどいですよ。
自分の信念を曲げるか。
自分以外の人間たちの信念を曲げさせるか。
どっちを選んだとしても地獄の苦しみ&難易度MAX。
んで、ここで救世主的に登場するのが第三の選択肢。
「サドル激下げ村」から、隣町の「サドル自由が丘」へ引っ越せばいいんです。
ほら、これで全部解決。
サドル自由が丘では、サドルの高さは個人の自由ですから。
引っ越し最強説、爆誕…!
誰も傷つかない。誰も悲しまない。誰も苦しまない。
自分の信念を曲げる必要もないし、
周囲の人々の考えを改めさせようなどと働きかける必要もない。
ただシンプルに「引っ越しをする」っていう。
信念がどうだとか、生き様がどうだとか、主義主張がどうだとか、そんな魂レベルの問題だと思われていた「サドルの位置問題」が、ただ単に、「引越しをする(物理的に距離を置く)」という方法を選択するだけで、あら不思議、まるっと解決しちゃいましたよ。
結局、なんだかんだ言って、「距離を置く」、すなわち「引越しをする」という方法が、なんというか、一番、スマートで、利口で、穏便で、スタイリッシュで、ポップでキュートな解決方法だと思うんすよね。
まぁ、サドル自由が丘には、また何か別の問題があるんでしょうけどね…しかしそれはまた次回のテーマに取っておきましょう。
どうでしょうか。
親子の問題、嫁姑問題、旦那のDV問題、パワハラ上司問題・・・
多くの問題が、実は「引越しをする(物理的に距離を置く)」ことで、解決するような気がしてきませんか?
住む場所、生活する場所については、死ぬ気で、全力で、真剣に吟味する。
実はそれが、Quality of Life(QOL)、すなわち「生活の質」にとって、非常に重要な要素なんじゃないかなと、最近はそんな風に思ったり思わなかったりしています。
住む場所についてはいろいろ考えていますが、、いまだに結論は出ておりません。