最近、ず~っと考えてたんですけどね、ようやくなんか、気づいたっていうか。
宮沢賢治さんがいうところの「自分を勘定に入れない」っていう境地ね。
(あっ、「ず~っと考えていた」っていうのはウソです。本当は時々しか考えていません)
ものすごく、かたく言うと自己犠牲の精神、ってことなんでしょうかね、違うのかな、「自分を勘定に入れない」という生き方。
最初に言っておきますけど、「私はそこを目指しております」って話じゃないんです。
全然そんなの目指しておりません。
そんなね、崇高な高邁な生き方、望んでもいないし、憧れてもおりません。
「へ~~」とか、「ほ~~」とか言いながら、傍観者ヅラしてながめているだけのポジションでございます。
所詮凡人、いや凡人以下。
何となくね、「自分を殺す」というかな、「自分のことを後回しにする」というかな、そういう感覚とか発想とかってさ、どこから来るんだろうな、ってのはちょっと不思議だったわけですよ。
どうなったら、その境地に辿り着けるんだろうな、っていう。
以前にも書いたんだけどさ、AKIRA(杉山明)さんって人がいてさ。
絵も描くし、本も書くし、歌も歌うし、旅もするし、ウンコもするし、死にそうになったり生き返ったり、まぁ忙しい人なんだけどさ、一言でいえば「表現者」とでも言いましょうか。
(久々にAKIRA普及計画)
AKIRAさんの「新年のあいさつ?」を、この記事の中でちょっと引用させてもらったんよね。
今回もまた、ごく一部だけ抜粋させてもらおう。
世界は愚かであればあるほど、愛しい。
人間はちっぽけであればあるほど、美しい。
自意識を消す。
人生は消しゴムだ。
生きることを学べば学ぶほど、
「自分」が消えていく。
自意識を消していくと、
本当の自分が見えてくる。
この、自意識を消すとか、自分を消すとか、っていう感覚ね、これ、どういうことなんかな?って。ちょっと思ってて。
AKIRAさんがこのメッセージを書いたのが2007年だからね、かれこれ10年以上、私の頭の中に引っかかってんすよね。
自分を消すってどういうことなんだ?って。
どうやったらその境地に辿り着けるんかな?って。
辿り着きたい、とは思わないんだけど、どういうことなんだろうな、ってのはずっと思ってて。
これ多分、宮沢賢治さんがいうところの「自分を勘定に入れず」ってのと同じようなことだと思うんだけどさ。
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けず
丈夫な体を持ち
欲はなく決して怒らず
いつも静かに笑っている
1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れず
よく見聞きし 分かり そして忘れず
野原の林の下の蔭の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに私はなりたい
自己犠牲っていうんですかね、自分のことよりも相手のことを優先する生き方っていうかな、まぁその結果、無理がたたって賢治はサクッと死んじゃうんですけど。
なんとなく、分かってきたような気がしないでもないでもないでもない。
最近、なんとな~くさ、こういうことなのかな…?って気がしたりしなかったり。
こんなツイートしたりして。
「自分のことは好きで当たり前、好きで当然」くらいまで行くと、また新しいビジョンが見えてくるんだと思う。勝手な憶測ですが。 / “自分を好きになるのに、理由は要らない。 - 自由ネコ” https://t.co/Tprxt7YmUX
— 自由ネコ@はてなブログ (@gattoliberoTW) 2018年4月3日
おそらくさ、人はみんな、オギャーと生まれてきた時は「まっさら」なわけですよね。
自分のことを肯定も否定もしていない。
自分のことを好きだとか、嫌いだとか、そういう感覚もない。
ただ、ありのまま。
ところが、そんなね、ピュアなまま生きていくのは難しくてさ、きっと、多くの人は自分のことを嫌いになったり、認めてあげられなくなったりするんよね。
他人と自分を比較してさ、勝ったとか、負けたとか、そんなこんなで一喜一憂してさ。
自分のことを好きになったり嫌いになったり。
そういうすったもんだを経験して、乗り越えて、「ワシはありのままでOKなんじゃ!」って心底思えるようになった時に、なんかこう、もう一段ステップを上がるっていうかなぁ、違う景色が見えてくるんじゃないのかな、って思ったりするわけです。
まずは自分をまるごと認めてあげること。
「全オレ」にOKを出してやること。
それが最初の第一歩なんじゃねーのかなと。
そして「完全にOKな私」になった時、もはや人は自分を肯定も否定もする必要がなくなる…のではないか。
OKで当たり前になると、「うん、今日もOKだな!」って意識しなくなると思うんよね。
当たり前のことって、考えなくなるでしょ。
「さ~てと、今日も酸素、吸っちゃおうかな」とか誰も思わないじゃん。
「今日の二酸化炭素、若干濃度濃いな…」とかさ、基本的には誰も思わないでしょ。いるとしたら、相当のCO2マニアよ。
「え~~と、ちょっと待てよ、右足から踏み出すとして、ということは手は左からだな」とか、そんなこと考えながら歩いてる人、いないと思うんよ。
ということはよ、自己嫌悪とか、自己愛とか、そういうのも、全部とっぱらっちゃった完全体になると「自分のことなんてクソどうでもいいぜ」って境地に至るんじゃねぇのかな?って。
そんな気がしてるんですけど、どうでしょうかね。
「自分を勘定に入れない」とか「自分を消す」とかって、そういうことなのかな?って。
自分の全部を受け入れることができて、その状態をキープすることができて初めて、見えてくる世界なのかなって。
オギャーと生まれて、
まっさら
↓
自分嫌い
↓
自分好き
↓
振り子のように揺れ動く我が心
↓
何らかの修行的な経験により一皮むける
↓
完全に揺るぎなくありのままのオレでOK
↓
オレのこととか、結構どうでもいいわ
↓
オレを勘定に入れない、カウントしない。
↓
オレのことよりもみんなのこと。
↓
THE・神に近い存在
みたいな。
最後思いっきり飛躍してしまいましたが。
そこまで辿り着いて初めて、無理とか無駄とかのない、当たり前の自己犠牲的精神が発動するんじゃないかと。
まぁ、「犠牲」っていう言葉を使っちゃうと一気に重たくなっちゃうから、もうちょっと別の言いかたの方が適切なのかもしれんけどさ。
ワシが言ってることは何となく分かってもらえたと思う。
これね、よく勘違いする人が多いと思うんだけどさ、自分自身がこの世に生きている存在理由が見つからなくて、そうだ、誰かのために生きよう、みたいな、他人をダシに使って自分の価値を確固たるものにしようとするような行為は別物ですからね。
最初はまず、自分のために生きるところから。
自信のない人は、「自分の存在価値を高めるために誰かの役に立ちたい!」って思いがちだけど、自分を犠牲にする形での他者への貢献は、絶対に長続きしないから要注意だ。
— ネコ師匠 (@nekomasterTW) 2017年12月8日
最初はとにかく、自分のために生きろ。好きなことをやれ。人生を楽しめ。そうすりゃ、その喜びは周りの人へと伝わっていくから。
ちゃんと段階を踏む。
…という壮大な前フリ。正直な話、もうね、自分のためにブログ続けるのが面倒になってきた(笑)
満足しちゃってるんだよな~。
本当は、書けば書くほど儲かるのかも知れないけどさ。
儲かれば、少しは裕福な生活ができるのかも知れんけどさ。
それ以上に、
「ブログ書くのめんどくせーな」が己の中で勝っちゃってるんよね。
書きたいけど、それ以上に寝ていたい。
怖いね。ジジイになると「勢い」で書くことができなくなります。
ということで。
苦肉の策で「人生相談」みたいなの、また始めようと思います(笑)
以前ちょっとやったんだけどさ、けっこう楽しかったんすよね~。
ディスプレイの向こう側に人(相談者)がいる、っていうのを実感できるからだと思うんだけどさ。
なんだろうね、ただ漠然と、顔の見えない大勢の人に語りかける感覚とはちょっと違うんですよね。
明らかに人がいる、っていうのはモチベーションになります。
しかもその人が私に対して何らかの回答を求めている、となると、そりゃもうね、「はい、書きましょう!」ってなりますよね。
とはいえ、回答者が私ですから(笑)
そのへんはあらかじめご了承いただきたいと思います。
クオリティとか追及しちゃダメよ。
最近なんかさ、質問箱?みたいなのあるでしょ、ツイッターで。
あんまりよく知らなんだけどさ。
あれ、使ってみようと思います。
そんで、質問に対する回答で、長くなりそうなケースは、このブログで回答する、っていう。
そういう感じのことを今、考えています。
近いうちに、質問箱?のアカウントを取得したいと思います。
ってか、こういうのは、ちゃんと用意してから書くのがまっとうな社会人なんでしょうけどね。
全然ダメっすわ。
ホントにもう、サーセン。
誰も相談してくれない可能性あるわ。
【追記(眠れる獅子、遂に覚醒!)】
テッテレー!!
し~つ~も~ん~ば~こ~~
味わい深い質問に対してはブログ経由で長々と回答する場合もあります。あらかじめご了承ください('◇')ゞhttps://t.co/COoZM9LZMl
— ネコ師匠 (@nekomasterTW) 2018年4月18日