先日ね、ツイッターなかま?の方の、親御さんがお亡くなりになったみたいで。
突然死みたいな感じだったのかな~、相当、動揺してるし、落ち込んでるし。でも、なんて声かけていいのか分からんのよね…。
今、何を言っても、そんなの全然意味ねぇなって。
なんとなく、当たり前のように今日と同じような明日があると思ってしまいがちだが、ホントは明日、死ぬかもしれないんだよね。
自分よりも親の方が先に死ぬのは、まぁ、当たり前といっちゃ当たり前じゃん?年齢が上なんだからさ。
それでもさ、やっぱ、突然、逝っちゃうと、「えぇっ!なんで!?」って思っちゃうよなぁ…。
「長い闘病生活の末・・・」とかさ、ある程度、心の準備とかできてりゃ、また違うんだろうけどさ。
「いきなり」はねぇ…。ビックリするし、動揺しちゃうよなぁ…。
ましてや、家族ですからね。
身内の死って、また違うよねぇ…。
その方は仲良かったみたいでさ。
家族の仲が良ければ良いほど、失った時のショックは大きいと思うんよね。
私の場合、家族と仲良くないから「失う辛さ」とか味わわなくても大丈夫そうなんだけど、おそらく、普通の家族って、誰かが「突然」死んじゃうと相当キツイと思う。
だってさ、死ぬと思ってない人がいきなり死ぬのって、単なる顔見知りくらいの関係でも、相当、動揺しちゃったりするもんなぁ…。
ちょうど一年前くらいに、こんな記事を書いた。ただの顔見知りの「死」でもショックですよ
相方がその店を気に入っててさ。私も連行される形で時々、その店に顔出してる程度だったからさ、全然、マスターの顔も覚えてないし、会話したこともほぼ無いのね。
それでも、いきなり「死んだ」って聞くと、「なぬっ!?」ってなったんだよねぇ。
度肝抜かれた。
それって、「死ぬはずがない」ってこっちが思い込んでたからだと思うんだけどさ。
だってね、まだ全然若かったのよ。私よりも10も20も若かった。
そしてね、後付けの理由なんだけどさ、今思えば、ってことなんだけどね、
その亡くなったマスター、「めっちゃ一生懸命、頑張って生きてた人」だったのよ。
なんかどうもね、私の場合、自分のように、
「のらりくらりと、ただなんとなく、ホゲ―っと生きてる人間」
よりも、
「一生懸命、何か目標に向かって、必死で頑張って生きてる人が、先に逝く」
ってのが、
物凄く納得できないみたいなんだよね。
「オレが死ぬならまだしも、頑張ってる奴とか、世の中のためにイイことしてる奴は、生かしてやってくれよ~…たのむよ、神さま…」
みたいな感じというか。
2カ月くらい前には、私のいとこが、過労的な何か?で死んじゃったんだけど、その時もねぇ、「頑張ってる人が先に逝くってどういうこと?」ってちょっと思っちゃったんだよなぁ…。
頑張ったら頑張っただけ見返りがあるわけじゃない。 - 自由ネコ
なんか理不尽な気がすんのね。
本当は、善人でも悪人でも、関係ないのかも知れんけど。
頑張っていようと、だらけていようと、同じように、いつ死ぬのか分からないんだろうけど。
まぁとにかくね、私みたいな、人間界とは距離を取って、相方の大福さん以外とはほぼ接触がない「世捨て人」系でさえも、「誰かの死」に直面した時に、いろいろと心に波風立っちゃうんだから、
冒頭で書いた、ツイッターなかまの方の親御さんの死ってのは、相当ねぇ…。つらいと思うんだよなぁ…。
なんて声かけていいのかホント分からんね…。
結局ね、我々は備えておくしかない。準備しておくしかないんだろうな、としか言えないなぁ。
一貫して何度も言っておりますが。
結局、それ以外に、我々ができることは…無いんじゃないかと。
1個だけ忘れちゃならないのは、
いつ死を迎えたとしても後悔しないように準備を整えておく、ということです。
これができていないと、自分の番が来た時に、急に怖気づいたり、取り乱したり、情けないことになっちゃいますから。
「え~!まさか自分の番が来るなんて思わなかった…」
なんてバカなこと言われても困ります。
とにかくね、私はこの「死ぬ準備」だけは、生きている間にやっておかなきゃならないノルマみたいなもんだと思うんだよね。
「はい、自由ネコさん、お待たせしました。あなたの順番が来ましたよ。」
って、死を宣告されてから、ジタバタするのはちょっと違うな、って。
名前を呼ばれたら、すみやかに、今世とは、おさらばする。
そのためには、ちゃんと、精神的にも、物質的なことでも、準備は終わらせておきたい。
これもうね、何十年も前からず~っと頭の中で繰り返しておりまして。
「明日死ぬとしても悔いが残らない生き方」
っていうのは、ず~っと考えていたわけです。
分かり易く言うと「やり残してきた事が何もない」ってことだね。
「私は、やりたいことは全部、精一杯やってきました。もう、悔いも未練もありません。納得して死にまーす。では!」
その状態が理想。
とはいえ、自分自身が死ぬ覚悟はできていたとしても、「自分以外の人が先に逝く」ってのは、なかなか、心の準備、難しいけどね…。
多分、あとは、「自分の幸せを他人に預けない」ってことを意識して生きるってのが大事なのかも知れない。
この話は、前にブログで書いたかなぁ…。
書いた気もするし、書いてないような気もする。
もしかしたら、ツイッターでツイートしただけだったかな?
これねぇ、私、時々、思うんですよ。
「自分のしあわせを他人に丸投げしない。全部あずけない」
って。
このツイートがニュアンス的に近いかな。
もしかすると、ドンピシャな過去ツイートもあるのかも知れないけど発見できなかったw
「誰か、私を幸せにして下さ~い!」って思ってる間は、幸せになれるかどうかは他人次第。自分の幸せを他人に丸投げしてる状態だし、他人を自由にコントロールすることはできないので、常に翻弄され続ける。
— ネコ師匠 (@nekomasterTW) November 25, 2017
「自分を幸せにするのは自分なのだ!」という気持ちは、いつも心の片隅に置いておこう。
「◯◯さんが居るから、私はしあわせ♪」
っていう状態って、実は非常にあやうい状態なんだよ、って話なんだけどさ。
これねぇ、ちょっと心の片隅に置いておくといいかも知んない。
例えばさ、私は自覚してるわけよ。めっっっっっちゃ自覚してる。
「相方の大福さんが居てくれるから、私は幸せでいられるのだ」
っていうのをね、何度も何度も心の中で思い返している。
これ、めっちゃ危ないぞと。
それを百も承知で、その幸せを享受している。
大福さんを失ったら、私はヤバいことになるんじゃないかと。
何が面白くて生きてんのか、完全に分からなくなるんじゃないかと。
廃人みたいになっちゃうんじゃないかと。
そういう危機感は常に持ってる。
常に持ったまま、大福さんと、キャッキャウフフとたわむれている。
この感じね。
今、ここにあるしあわせは、言ってみれば砂上の楼閣なんだ、と。
いつ、崩れ落ちてもおかしくないんだ、と。
そういった意識は、ず~~っと密かに心に秘めてる。
秘めたまま、バカなことやってる。
ゴロゴロと、ウダウダと、ダラダラと生きてる。
自分が幸せになれるかどうかを、まるごと他人に委ねてしまわないこと。
それが大事ですよ、と言いながら、
私は「大福さんに全て預けてもいいな」と思っているのです。
その結果、地獄を見ることになったとしても、それでもいいな、って。
毒を食らわば皿まで。
いや、その表現はちょっと違うな(笑)
しっかりと芯を持って、グラつかずに、ブレずに、どっしり構えて生きていきたいのであれば、ちゃんと自分の足でしっかり立つことが大事なんですね、まずはそれが理想的というか、模範回答というか。
んで、それを踏まえたうえで、
「人間は弱い生き物だ。私は弱い。誰かに支えてもらわなければ生きていけない」と、白旗宣言してしまう。
自分を卑下するでもなく、落ち込むでもなく、淡々と、堂々と、自分の弱さを認めてしまう。
模範解答を把握したうえで、あえて別の答えを選択する。
矛盾しているといえば矛盾している。
しかしだ。
じゃあ矛盾していない人間なんて…いるの?
「矛盾していない正しい人」を目指すこと自体を辞めれば、もっとのびのびと軽やかに生きていけるのに。
何言ってんのか、分かんなくなってきたな(笑)
言いたいことが3つくらい同時にあって、それが複雑に入り組んでるから、説明がムズイな…。
またいずれ、書くことにしようか。ニーズがあれば。
とにかく。
心の片隅に、置いておくといい、と思う。
自分が幸せになれるかどうかを丸ごと他者に委ねない、ということ。
自分自身の内側に、自分を支えてくれる「何か」を構築しろ。
みたいな。
自分の外側じゃなく、内側ね。
「自分が生きる理由」を他者にまるごと託さない。他人に丸投げしない。
その意識だけでも持っておくとイザという時に違うと思う。
万人に共通する正しい答えなんてものは無いんでね、あとはもう、人それぞれだから。
各自が「自分にとっての答え」を見つけ出してくれればいいんじゃないかと。
グッドラック!