親の延命治療どうしますか?って話(人工呼吸器は一度つけたら外せないらしいよ)

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人工呼吸器って一度つけたら、もう外せないらしいですね。

「あっ、やっぱ辞めます。外します」って言っても、もう遅い。

「人工呼吸器を外す」ということは、「人の命を終わらせる」ということですから。

そして、病院側としては理由はどうあれ「意図的に人を死なせる」ことは基本、できないんよね…。

結果「いったい誰のために延命治療を続けてるんだ?」みたいなことになったりして。

 

「延命治療をしない、続けない」という選択肢には、罪悪感的な何かがつきまとうのか

ほんさき さんのこちらのエントリーを読みまして、いろいろ考えました。

www.honsaki.com

 

1度目の搬送時の救急病院の医師は、母が少し落ち着いた後、駆けつけた私たち家族に、人工呼吸器の装着についてお話してくださいました。

一度つけたら、外すことはできないこと。

話すこともできず、機械につながれるので外出もできないこと。

高額な医療費がかかること。

どのような状態で助かるのか、どのような状態で生きたいのかを踏まえて、本人と家族で話し合っておいてほしいと伝えてくださいました。

 

う~~む……。

一度、人工呼吸器をつけたら、二度と外すことはできない。

生きていても、会話することはできない。

自由に動き回る事も出来ない。

そして、莫大なお金が必要になる。

 

こういう話を聞くと「延命治療しない方がいいような気がするなぁ…」って、なんとなく思いがちじゃないですか。

 

でもね、実際はさ、

「うちの家族は皆、延命治療、一切なしってことにしよう!」

って、事前に家庭内で口約束していても、いざとなったら怖じ気づいて、

「や…やっぱ、無理だ、今ここで家族の生き死にを決断できない。そんな重圧たえられない。とりあえず呼吸器つけちゃってください」

ハイー、延命治療決定~。もう二度と人口呼吸器、外せないー。

みたいなこととか、けっこうあるらしいんすよね。

 

私の親戚的な家族もね、まさにそんな状態で。

 

私は直接見てないんだけど、聞いた話だと、人工呼吸器をつけてる婆さんがさ、すごく苦しそうだったりするんだって。

それで、自分で体に繋がれてるチューブとかを外そうと、もがくんだって。

意識があるんだかないんだか知らんけど、暴れるから、ベッドに縛り付けられるんだってさ。

それで、手が自由に動くと呼吸器とか外しかねないから、物がつかめないように、まず指が動かせないように両手に袋を被せるんだって。

それで、紐でぐるぐる巻きにして、ベッドの縁に縛り付けられるわけよ。

なんだろうね、「これはもう、拷問なんじゃないか」っていう気もするんだけどね。

 

入院したことがある人なら分かると思うけど、自分で自由に寝返りが打てない状態って、想像以上に辛いんよね。

体じゅう痛くなるし、メチャクチャきついのよ。

ほんの数日だったとしても、体が動かせない状態って、とてつもなく辛いんよね。

 

たとえばさ、

「背中が痒いけどかけない」っていうだけでも、相当ストレスたまるじゃん?痛くても動けないってのは、そのストレスの何倍もきついからね。

 

痒くてもかけない、痛くても意思表示できない。

これ、けっこう、想像を超える地獄だから。

 

でもさ、寝たきりの人って、そんな状態が、何十日、何百日、何千日って続くわけじゃん?

それって、誰のためなんだろうね。

誰のために長生きしてるんだろうね。

本人は望んでいるんだろうか?

 

結局ね、その縛られてる婆さんの家族はさ、誰も「婆さんに延命治療しないでください」って言えなかったんだよね。

なんかもう、お互いに責任転嫁というか、

「オレは決められない、お前らが決めてくれ」みたいな。

 

にもかかわらず、苦しんでる婆さんの姿を見て

「もしも自分が同じ状態になったら、延命治療しないでくれ」

って言うんだって。

「自分はやられたくないことを、自分の婆さんにはしてる」っていう状況。

これは一体何なんだろうかね。

 

結局ね、突き詰めて言うと「責任逃れ」ってことなのかも知れないね。

 

もしも、「うちの婆さんに延命治療しないで」って医者に言ってしまったら、何かこう、自分が人殺しに加担したことになるんじゃないか?って不安な気持ちになるんだろうね。

罪悪感とか恐怖感とかに苛まれて、それで怖じ気づいてしまう。

残された者に、罪悪感を引き受けるだけの勇気と覚悟が、あるのかないのか?って話のような気もするんだよね。

 

 

自分の決断が結果的に「家族の死期を早めてしまったのではないか?」という、いわば罪悪感的な何かを背負えるだけの強さがあるのかどうか?

先ほどの、ほんさき さんのエントリーから。

私の気持ちは「母に人工呼吸器はつけない」 ことに固まっていました。

80を過ぎ、いずれは私より先に逝ってしまうであろう母。

話すこともできず、ただベッドに横たわり、わずかに命を長らえることは、苦痛を長らえるだけのように思えました。

 

父に電話をし、いよいよであることを告げます。人工呼吸器をつけない方が良いと思うことも。

兄、姉にも電話をかけ、嘆く二人に、やはり人工呼吸器をつけない最期を提案しました。

家族を説得し「いよいよになっても、母に人工呼吸器はつけないでください」と医師に連絡しました。

 

結果として、母はこの時も奇跡的に回復し、半年後、自宅で眠るように亡くなりました。

死期が早まるとわかっていても、自宅に戻すと判断したのも私です。

 

肝が据わっている。

覚悟ができている。

強い。

 

家族を説得するということは、

家族全員分の罪悪感を被る覚悟があるということ。

 

私は、あの時から常に重い罪の意識を背負っています。

 

母の命を絶つことを望んだような気持ち。

母の命を絶てと、家族を説得までしてしまった自分。

母を手にかけたことと、何が違うと言うのか。

内心、長引く介護が辛くて、楽になろうと思ったのではないか。

人工呼吸器をつけてもらったら、自宅に帰さなかったら、もう少し長く母は生きていたのではないか。

 

幼い頃、母が寝込むたびに「お母さんが、死んでしまう」と、布団の中で泣いていた少女は、

大人になって、「もう母は生きなくてよい」と判断してしまいました。

 

後悔は全くありません。

ただ重いものを背負っているのです。

私が死ぬまで背負い遂げれば良いことだし、それが私の存在した意味になるようにも思います。

 

そして、自分は、愛する子どもたちに、ましてや赤の他人である医師に、こんなものを背負わせたくないと思っています。

 

後悔は全くない。

ただ、背負う。

私が死ぬまで背負い遂げれば良い。

それが私の存在した意味になる。

 

・・・・・・・・・

 

強い。

 

我々も、今から常に自問自答し、備えておきたいですね。

 

生きるとは?

死とは?

命とは?

 

その時になってから、あたふたして

「え~~っと、じゃとりあえず人工呼吸器で。あと枝豆。

みたいな、

居酒屋でビールを頼むみたいに「とりあえず」ってワケにはいかないのです。