私の人生に大きな影響を与えた人物のひとりが、スナフキンです。
スナフキンとは…? 誰?
フィンランド人作家トーベ・ヤンソンの作品「ムーミン」シリーズに登場する自由と孤独を愛する、おっさんです。
私の記憶が正しければ、幼少期に観ていたアニメ「ムーミン(岸田今日子版)」では、主人公ムーミンの「人生の良きアドバイザー」という感じのポジションで登場していました。
私は子供心に「スナフキン、超カッケーな~!」
と思って観ていました。
(正直、内容はほとんど覚えていませんが)
スナフキンはムーミン谷のはずれで、ひとりでテント生活をしています。
ひとりぼっちでも、ちっとも寂しがっていない。
むしろ孤独を愛している。
いつも冷静沈着で、鋭い洞察力がある。
悩みを抱えたムーミンが相談しにきた時には、的確なアドバイスをしてあげる。
・・・・・・
まぁ、記憶もあいまいなんですが、勝手なイメージとしてはこんな感じ。
ムーミンにとっては「人生のパイセン(先輩)」という感じだったんじゃないでしょうかね。
そして、私にとっても同様にね。
大人になってから、人生に迷っていた時に「ムーミン・シリーズ」を全部、読んでみた。
記憶が確かならば、私は人生に迷っていたある日、図書館にあったムーミン・シリーズを全巻、読み漁った時期がありました。
トーベ・ヤンソンの原作版の日本語訳を全部、読んだ…はず。
意外だったのは、私の中で勝手に美化されていたカリスマ、スナフキンが、意外とダメなところや、しょ~もない部分もあったこと。
スナフキンは、神でもなんでもなくて。
ムーミン・シリーズを読みながら、私はちょっと拍子抜けしたり、ちょっとホッとしたり。
原作ではこんな感じなんだなぁと、少し驚きました。(たぶん)
スナフキンの名言は数々あれど、私の一押しはコレ。「ムーミン谷の仲間たち」から。
この本。
「ムーミン谷の仲間たち」の中の一節に、スナフキンと、彼をカリスマと崇めるちっぽけな存在「はい虫」とのやりとりがあります。
もう一度、読むのが面倒なので、私の曖昧な記憶を頼りに、ちょっと内容を書きだしてみます。
違ってる可能性も、かなりあります。
(っていうか、多分、違ってます)
ちっぽけで、無力で、自分に自信がない「はい虫」。
はい虫は、伝説の男、スナフキンに憧れていました。
(原作でもやはり、スナフキンはカリスマなんですね。)
そんな「はい虫」が、 ある時、本物の生スナフキンと偶然、出くわします。
はい虫、超~ハイテンション。
うわ~!マジっすか!
スナフキンさん!
おいら、昔からあなたの大ファンだったんですよ~!
握手してください!
わ~!ヤベ~!
スナフキンは、ちょうど独りで鼻歌を作曲?していたので、それを邪魔されて、若干イラッと来ています。
はい虫
「超~リスペクトっす~!」
そこでスナフキンが一言。
あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。
はい~!
いただきました~!
名言、いただきました~!
その後「はい虫」とスナフキンは、一度別れますが、スナフキンはふと「はい虫」の事が気になりはじめます。
そういえば、オレの大ファンだって言ってた信者、どうしてるかな…。
ちょっと会いに行ってみるか…。
スナフキンは、もう一度「はい虫」に会いに行きます。
あいつ、オレのこと超~リスペクトしてるからなぁ~。
オレの方から会いに行っちゃったら、あいつは、嬉しさのあまり鼻血でも出すんじゃね?
そして、二人は対面します。
スナフキン
「どうも~!カリスマのオレが来ましたよ!っと♪」
はい虫
「あ~どうも。今ちょっと忙しいんで。あとにしてもらえます?」
スナフキン
「・・・(-_-) 」
(ス―――――ンって感じ)
そうです。
「はい虫」は、スナフキンの助言「誰かを崇拝しすぎるな」をさっそく実践し、自我を確立し、ぶれない自分自身を手に入れていたのです…!!
※
実際の内容はかなり違う可能性があります。
これは、私の特殊な脳内フィルターを通過したあとの物語です。
スナフキンをリスペクトしすぎている「はい虫」のままで生きていくのはキツイ。
すっかり、スナフキンの狂信的なファンではなくなった「はい虫」。
自己を確立し、スナフキンと対等に会話していますね。
スナフキンを上、自分を下に見る事をやめています。
我々も本来であれば、必要以上に誰かを崇め奉ることなく生きていけるはず。
スナフキンが言うように、
「誰かを崇拝しすぎると本当の自由は得られない」
んですよね。
誰かを「スゴイ!」って思っている時には、同時に誰かを「自分よりもすごい」って思ってるはずなんです。
意識的にしろ無意識的にしろ、自分自身と比べている。
ある意味、自分と他者を比較して、一喜一憂することに繋がっているわけです。
勝ったとか、負けたとか。
そうやって、自分自身の価値を測ったり、ポジションを見極めたり。
このやり方だと、いろいろと面倒なんですよね。
自分よりも上だと思える人に対して嫉妬したり。
下だと思える人に対して傲慢な態度をとってしまったり。
「凄い人」と比較することで、自分を無力な存在だと感じて落ち込んだり。
すげ~気持ち悪い感じになっちゃいます。
嫉妬。絶望。自己嫌悪…。
上手に使いこなせば、何かを頑張る原動力になる場合もありますが、使いこなすのは非常に難しいです。
自由になりたければ、自分と他人を比較して一喜一憂するのは辞めろ。
私は、スナフキンと同様に「自由であること」に対して異常なほどの価値を見出していますからね(笑)
自由でありたいがために、いろんなものを捨ててきました。
(っていうか、柔軟性が無いのでそういう生き方しかできない)
私の個人的な話だと、自分と他人を比較して、嫉妬や絶望感に苛まれた一番のビッグ・イベントは、10年くらい前だったと思います。
これ乗り越えた後、人生がめちゃめちゃ生きやすくなりましたね。
まぁ、乗り越えるまで、かなり苦しんだけど。
全然簡単じゃなかった。
当時、アート的な事をやっていて。
今とは違って、その時の私には野心がありました。
売れたいとか、認められたいとか。
一番認められたかった相手は女房&子供たちかな…。
もう別れちゃいましたけど。
10年くらい前に、AKIRAさんのニューヨーク時代の作品をホームページで観た時に、どうしようもない絶望感を味わいました。
何日考え込んだか、よく覚えていない。
多分、嫉妬心もあったんだろうけど、それよりも敗北感の方が大きかったんじゃないだろうか。
「3回人生があったとしても自分にはこんな作品は絶対に創れない」
という確信があった。絶対に無理。
人間そのもののスケール感が圧倒的に違い過ぎて、いろいろとイヤになった。
作品どうこうというより「人間の器」って部分なんだろうな。
結局これ、自分とAKIRAさんを比較しちゃってるんだよね。
全然ダメ。
本来アートって、そういうことじゃないんだけどさ。
それは頭では分かってるんだけど、心では折り合いがつかないわけ。
動揺しちゃってるわけ。
自分の核の部分がぐらついちゃってるわけ。
何度自分に言い聞かせても、ふとした時に、うっかり自分と誰かを比較しちゃってる。
「オレはオレなんだ」
「オレはオレに与えられた役割をまっとうするんだ」
っていう考え方が、本当に自分に染み込むまで、何度も何度も言い聞かせた。
ずいぶん時間もかかったね。
でも、おかげで今では、全然、揺らがない。
凄い人を見て嫉妬することもない。
彼は彼に与えられた「凄い人」という役割を演じてる。
オレはオレに与えられたポジション、役割をひたむきに演じるだけだ。
と、自然に、当たり前のように思えてる。
そうするとすごく自由なんだよな~、これがまた。
大抵のものは全部
「そんなこと、オレの知ったことか。」
くらいで済んじゃう。
ただ、ひとつ問題なのは、「他人を見て嫉妬する人の気持ち」に鈍感になったと思う。
自分だったらこのケースでは嫉妬しないけど、他の人なら嫉妬するんだろうな、みたいなのが、よく分からなくなってきてる。
「嫉妬する人たちの気持ちを考慮する」というのが超めんどくせーってなってる。
「他人のブログを見てジェラシー感じる」とか、ホントマジで勘弁してくれよって話だなって思ってしまう。
誰がどれだけPVを稼ごうが、収益を上げようが、読者が何千人いようが、そんなこと、オレの知ったことか。
で、済んじゃう話なんだけどな、って思ってしまう。
(もちろん私も表向きは、スゴイですねー!マジリスペクト!って言いますけどね)
ようするに私は、自分の物差しで他人を測っちゃってるんだね。
「自分が嫉妬しないなら、他のみんなも嫉妬しないはず」って、無意識に思っちゃってる。
これちょっと、難しいというか、めんどくさいんだよね。
気が付いたら、ずいぶん長い話になっちゃってるので、ちょっと途中っぽいけど、もう書くの辞~めた。
人は全員が違う役割を持っている。他人の役割をうらやましがるな。誰かと自分を比較するな。
今、苦しんでる人は、何度も自分に言い聞かせるといい。
当たり前のように感じるほど、徹底的に染み込ませる。
この考え方が自分自身の血や骨になるまで、何度も何度も言い聞かせる。
スナフキンの名言
「誰かを崇拝しすぎると本当の自由は得られない」
ついでに。
自由ネコの中の人の名言(アドリブ)
「他者を気にせず、自分の生き方、自分に与えられた役割をまっとうすべし。」
う~~ん…。
全然、名言じゃないな(笑)
あとでまた、暇な時にでも考えるか。