ここ数年「自己肯定感」とか「自尊感情」とかいう言葉をあちこちで見かけます。
しかしなかには、何か意味を勘違いしていると思われるケースもチラホラ…。
ということで改めて考えてみました。自己肯定感について。
「自己を肯定するってことは他者を肯定しないってことです(激怒)自己肯定感、気に食わねぇ」みたいな意見を見かけたりすると、いやいやいや…そういうことじゃなくね?とモヤる。
でもね、時々、そういう意見を見かけます。
おかしな話ですよね。
「ネコが好き」っていうと「じゃあイヌは嫌いなんですね」って言ってくるような。
発想が変な方向に飛躍しているというか。
ちょっと冷静に考えてみると
「ネコが好き」イコール「イヌが嫌い」ではないですよね。
「ネコが好き」と言った人が実は
「動物全般が好き」である可能性も十分にあるわけですよ、実際には。
「ネコが好き(イヌも好き、クジラも好き)」って場合も当然あるわけですよね。
そう考えるとですよ、
「自分を肯定できる人」が
「自分以外も肯定できる人」である、っていうことも全然あるわけじゃないですか。
いや、
むしろ、
「本当に自己肯定感がある人」とは、
「自分も他人も同じように肯定できる人」のことを指すのではないでしょうか。
・・・・・・
ちがう?
さて、本題に入りましょうか。
(長い前フリ)
自己肯定感(自尊感情)がある人とない人の違いは「最初の前提」だと思う。「自分は生きていてOKな存在だ」という実感の問題。
「最初の前提」っていう言い方が変な感じしますね。
「馬に乗馬する」的な。
まぁいいや、とりあえず先へ進めていきます。
自己肯定感がある人ってのは、
「親から無条件の愛情を受けて育った人である」みたいな考え方とか、よくありますよね。
私も、そう思うんです。
「無条件の愛情」を受け取った経験があるかないか。幼少期にそういう実感があったかなかったか。
それが、自尊感情とか自己肯定感に大きく影響していると考えています。
では「無条件の愛情」とはどんなものか。
あるいは逆に「条件付きの愛情」とはどんなものか。
「条件付きの愛情」というのは、たとえば
「テストで80点以上とったら親からハグしてもらえる」とか。
「親の言う通りに行動すれば、褒めてもらえる、認めてもらえる」みたいな。
何らかの条件をクリアしたときにはじめて、愛情という名のご褒美をもらえる、的な。
これって、逆に言うと
「課題を達成できなければ愛してもらえない」とも言えますよね。
こういう環境で幼少期を過ごした場合、なかなか「自己肯定感」って育っていかないと思うんですよね。
「自分は無条件で愛される価値のある人間なのだ」という感覚は得られないはずですから。
「私はただ生きてるだけで、すでに価値のある存在なのだ」
とはなかなか思えないはず。
んで、これって多分、無意識の領域の話なんですよね。
いちいち意識していない。
明確に捉えられない漠然とした感覚のはず。
普段何かをやる時に、いちいち幼少期を思い出しているわけじゃない。
ただ、常に、何かをやる時に「前提として」頭の中というか、心の中に鎮座している要素だと思うんですよね。
友達と遊ぶにしても、
就職活動をするにしても、
異性とお付き合いするにしても、
何かやるときに、無意識の領域で漠然と
「自分には無条件で愛されるだけの価値がある」
という感覚があるかないかで、なんというかな、恐怖心というか、安心感というか、心の持ちようが全然、違ってくると思うんですよね。
結果、人生の難易度そのものさえ、変わってくるっていうか。
何かに取り組むときに前提として
「自分は何もなくても生きていてOK」
という感覚が深層心理にあるか、
あるいは
「自分は生きていてOKな存在なのだろうか…?」
と半信半疑なのかで、全然、違いますよね。
これ、心のしんどさというか、意味不明な重圧の有無に大きく影響してくると思うんです。
もちろん、いちいち意識はしてないし、本人には自覚が無かったりするんだろうけど、それでも、自己肯定感の有無は、ひっそりと確実に、人生の難易度に影響を与えていると思うんですよね。
たとえるなら、自己肯定感とは「目に見えない命綱」のようなものと言えるのかもしれない。
たとえばさ、今から「綱渡り」をするとして。
人生の岐路で現れる「崖の上のアトラクション」。
係員があなたを誘導します。
自己肯定感のある人は、係員から、こう耳打ちされます。
「大丈夫です。安心してください。目には見えませんが、あなたの腰には透明な命綱が装着されています。たとえ足を踏み外しても、あなたは大丈夫です」
反対に、自己肯定感が無い人は係員から
「え~と…失敗したら終わりです。落ちたらアウトです」
と説明を受けます。
どうですか、これ。
これから取り組むミッション自体は全く同じです。
やるべきことは同じです。
同じ内容の綱渡りです。
同じロープで、同じ谷底です。
しかし、
自己肯定感があるかないかで、心の在り様は全く別物になりますよね。
この根本的な、セーフティーネットというか、目に見えない命綱のようなもの、これが自己肯定感(自尊感情)なんじゃないかな?って、私は思うんですよね。
人生の岐路に立たされた時「この崖から落ちても大丈夫。失敗しても大丈夫」って思えるかどうか。
それによって、一歩踏み出せるかどうか、行動そのものが変わってきます。
生き方自体に大きく影響を及ぼします。
・・・・・・
自己肯定感が無い人の生きづらさってのは、そういう事なんじゃないかな?って気がするんです。
自己肯定感を手に入れるために一生懸命に頑張るってのは、ちょっと違うんじゃないか?
じゃあ、自己肯定感を持ち合わせていない人が、どうすればそれを得られるのか。
一生懸命頑張って、ダイエットして、仕事バリバリやって、給料いっぱいもらって、昇進して、結婚して子供つくって・・・これでOK!
って話かっていうと、そういう事じゃないような気がします。
だって、それって、「条件付きの愛情」と同じじゃないですか。
「テストで良い点数を取らないと親から愛してもらえない」っていうのと、同じじゃないですか。
がんばってがんばって、いくつもハードルを乗り越えたとしても、おそらく「無条件に自分の存在を認める」ことはできるようにはならんですよね。
「条件付きで認めること」を繰り返しているに過ぎないから。
しかもそのハードルはじわじわと高くなっていくし。
それじゃ、どこまで行っても、どこにもたどり着けない。
無条件でなければならない。
「己の存在そのものを肯定する」ってのはそういうことでしょ。
生きてるだけでOK。
生きてるだけで価値がある。
生きてるだけで許されている。
生きてるだけですでに合格している。
生まれたばかりの赤ちゃんの時、人はみんな、生きてるだけですよね。
泣いて、ウンコしてるだけです。
家事手伝いもしないし、学校にも行かないし、バイトの面接に行こうともしない。
それでも、OKな存在だった。
許されるし、愛される存在だった。
生きてるだけで、生きてていい存在だった。
・・・・・・・・・
ちょっと何言ってるのか、自分でも分からなくなってきました。
こんなグダグダな終わり方でもイイのだろうか…?
・・・・・・・・・
いや、OK!
OKという事にしておきましょう!
全部ひっくるめて、肯定だ!
毎日、1歩ずつ進む。🆗‼️
— 自由ネコ (@gattoliberoTW) 2020年5月29日
毎日、半歩ずつ進む。🆗‼️
毎日、1ミリずつ進む。🆗‼️
毎日、さっぱり進まない。🆗‼️
毎日、後退していく。🆗‼️
毎日、ただ生きてるだけ。🆗‼️
とりあえず全部OK!!!
おめでとうございます!
あなたもわたしも「みんなOK」ということが判明しました!!
にっこり
どうすれば自分自身を丸ごと認めて愛せるようになるのか?
どうすれば自己肯定感を育んでいけるのだろうか?
そんな話はこちら。