【2020夏】「自己肯定感」とは何か?私なりに考えてみた

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ここ数年「自己肯定感」とか「自尊感情」とかいう言葉をあちこちで見かけます。

しかしなかには、何か意味を勘違いしていると思われるケースもチラホラ…。

ということで改めて考えてみました。自己肯定感について。

 

「自己を肯定するってことは他者を肯定しないってことです(激怒)自己肯定感、気に食わねぇ」みたいな意見を見かけたりすると、いやいやいや…そういうことじゃなくね?とモヤる。

でもね、時々、そういう意見を見かけます。

 

おかしな話ですよね。

「ネコが好き」っていうと「じゃあイヌは嫌いなんですね」って言ってくるような。

発想が変な方向に飛躍しているというか。

 

ちょっと冷静に考えてみると

「ネコが好き」イコール「イヌが嫌い」ではないですよね。

 

「ネコが好き」と言った人が実は

「動物全般が好き」である可能性も十分にあるわけですよ、実際には。

 

「ネコが好き(イヌも好き、クジラも好き)」って場合も当然あるわけですよね。

 

そう考えるとですよ、

「自分を肯定できる人」が

「自分以外も肯定できる人」である、っていうことも全然あるわけじゃないですか。

いや、

むしろ、

「本当に自己肯定感がある人」とは、

「自分も他人も同じように肯定できる人」のことを指すのではないでしょうか。

・・・・・・

ちがう?

 

さて、本題に入りましょうか。

(長い前フリ)

 

 

自己肯定感(自尊感情)がある人とない人の違いは「最初の前提」だと思う。「自分は生きていてOKな存在だ」という実感の問題。

「最初の前提」っていう言い方が変な感じしますね。

「馬に乗馬する」的な。

まぁいいや、とりあえず先へ進めていきます。

 

自己肯定感がある人ってのは、

「親から無条件の愛情を受けて育った人である」みたいな考え方とか、よくありますよね。

 

私も、そう思うんです。

「無条件の愛情」を受け取った経験があるかないか。幼少期にそういう実感があったかなかったか。

それが、自尊感情とか自己肯定感に大きく影響していると考えています。

 

では「無条件の愛情」とはどんなものか。

あるいは逆に「条件付きの愛情」とはどんなものか。

 

「条件付きの愛情」というのは、たとえば

「テストで80点以上とったら親からハグしてもらえる」とか。

「親の言う通りに行動すれば、褒めてもらえる、認めてもらえる」みたいな。

何らかの条件をクリアしたときにはじめて、愛情という名のご褒美をもらえる、的な。

これって、逆に言うと

「課題を達成できなければ愛してもらえない」とも言えますよね。

 

こういう環境で幼少期を過ごした場合、なかなか「自己肯定感」って育っていかないと思うんですよね。

「自分は無条件で愛される価値のある人間なのだ」という感覚は得られないはずですから。

「私はただ生きてるだけで、すでに価値のある存在なのだ」

とはなかなか思えないはず。

 

んで、これって多分、無意識の領域の話なんですよね。

いちいち意識していない。

明確に捉えられない漠然とした感覚のはず。

普段何かをやる時に、いちいち幼少期を思い出しているわけじゃない。

ただ、常に、何かをやる時に「前提として」頭の中というか、心の中に鎮座している要素だと思うんですよね。

 

友達と遊ぶにしても、

就職活動をするにしても、

異性とお付き合いするにしても、

何かやるときに、無意識の領域で漠然と

「自分には無条件で愛されるだけの価値がある」

という感覚があるかないかで、なんというかな、恐怖心というか、安心感というか、心の持ちようが全然、違ってくると思うんですよね。

結果、人生の難易度そのものさえ、変わってくるっていうか。

 

何かに取り組むときに前提として

「自分は何もなくても生きていてOK」

という感覚が深層心理にあるか、

あるいは

「自分は生きていてOKな存在なのだろうか…?」

と半信半疑なのかで、全然、違いますよね。

これ、心のしんどさというか、意味不明な重圧の有無に大きく影響してくると思うんです。

もちろん、いちいち意識はしてないし、本人には自覚が無かったりするんだろうけど、それでも、自己肯定感の有無は、ひっそりと確実に、人生の難易度に影響を与えていると思うんですよね。

 

 

たとえるなら、自己肯定感とは「目に見えない命綱」のようなものと言えるのかもしれない。

たとえばさ、今から「綱渡り」をするとして。

自己肯定感(自尊感情)とは「目に見えない命綱」のようなもの?

自己肯定感(自尊感情)とは「目に見えない命綱」のようなもの?

 

人生の岐路で現れる「崖の上のアトラクション」。

係員があなたを誘導します。

 

自己肯定感のある人は、係員から、こう耳打ちされます。

「大丈夫です。安心してください。目には見えませんが、あなたの腰には透明な命綱が装着されています。たとえ足を踏み外しても、あなたは大丈夫です」

 

反対に、自己肯定感が無い人は係員から

「え~と…失敗したら終わりです。落ちたらアウトです」

と説明を受けます。

 

どうですか、これ。

これから取り組むミッション自体は全く同じです。

やるべきことは同じです。

同じ内容の綱渡りです。

同じロープで、同じ谷底です。

しかし、

自己肯定感があるかないかで、心の在り様は全く別物になりますよね。

 

この根本的な、セーフティーネットというか、目に見えない命綱のようなもの、これが自己肯定感(自尊感情)なんじゃないかな?って、私は思うんですよね。

 

人生の岐路に立たされた時「この崖から落ちても大丈夫。失敗しても大丈夫」って思えるかどうか。

それによって、一歩踏み出せるかどうか、行動そのものが変わってきます。

生き方自体に大きく影響を及ぼします。

・・・・・・

自己肯定感が無い人の生きづらさってのは、そういう事なんじゃないかな?って気がするんです。

 

 

自己肯定感を手に入れるために一生懸命に頑張るってのは、ちょっと違うんじゃないか?

じゃあ、自己肯定感を持ち合わせていない人が、どうすればそれを得られるのか。

 

一生懸命頑張って、ダイエットして、仕事バリバリやって、給料いっぱいもらって、昇進して、結婚して子供つくって・・・これでOK!

って話かっていうと、そういう事じゃないような気がします。

 

だって、それって、「条件付きの愛情」と同じじゃないですか。

「テストで良い点数を取らないと親から愛してもらえない」っていうのと、同じじゃないですか。

 

がんばってがんばって、いくつもハードルを乗り越えたとしても、おそらく「無条件に自分の存在を認める」ことはできるようにはならんですよね。

「条件付きで認めること」を繰り返しているに過ぎないから。

しかもそのハードルはじわじわと高くなっていくし。

それじゃ、どこまで行っても、どこにもたどり着けない。

 

無条件でなければならない。

己の存在そのものを肯定する」ってのはそういうことでしょ。

 

生きてるだけでOK。

生きてるだけで価値がある。

生きてるだけで許されている。

生きてるだけですでに合格している。

 

生まれたばかりの赤ちゃんの時、人はみんな、生きてるだけですよね。

泣いて、ウンコしてるだけです。

家事手伝いもしないし、学校にも行かないし、バイトの面接に行こうともしない。

それでも、OKな存在だった。

許されるし、愛される存在だった。

 

生きてるだけで、生きてていい存在だった。

 

・・・・・・・・・

 

ちょっと何言ってるのか、自分でも分からなくなってきました。

 

こんなグダグダな終わり方でもイイのだろうか…?

・・・・・・・・・

いや、OK!

OKという事にしておきましょう!

全部ひっくるめて、肯定だ!

 

 

どうすれば自分自身を丸ごと認めて愛せるようになるのか?

どうすれば自己肯定感を育んでいけるのだろうか?

そんな話はこちら。

gattolibero.hatenablog.com