以前、見かけたツイートなんですけど、ず~~っと、いつかブログで言及したいと思っていました。
そして、2年経ちました。ついに書きます。
衝撃。『誰かを「自分の生きがい」にすると、生きがいにされた誰かが気の毒だろ?』みたいな考え方。
こちらのツイートなんですけどね、
2年前に見かけた時に、衝撃を受けまして。
私は人生の師匠に言われた「自分を支える核を持ちなさい、仕事でも趣味でも。ただしその『核』は人間であってはいけない。人間は裏切るし変わるし、何より『核』にされた人間が気の毒だ」という言葉は本当に肝に銘じてるんだ。夫でも子供でも、とにかく人間を「自分の生きがい」にするのはやめようと。
— 櫛 海月 (@kusikurage) 2018年7月28日
それで、ず~~っと、ブックマークに保管しておりました。
これについては、いつか書きたい、書かなくては…と。
苦節2年。
ようやく私の思いが日の目を見る時が来ました。
私自身「自分の人生を誰かに丸投げするな」みたいな話は、過去にも何度か書いているんだけど。それよりも一歩突っ込んでるなぁと。
誰かにどっぷりと「依存」する、全体重を乗っけちゃう、みたいなことは辞めた方がいいぜ、って話は、過去に何度か書いてるんですけどね。
「誰かに必要とされているか?」「社会に貢献しているか?」
— ネコ師匠 (@nekomasterTW) 2016年10月8日
そういう物差しで自分自身の価値を測っている人間は「他者ありき」で生きているので軸を持てずにブレやすい。
自分の人生を誰かに丸投げするのは、自分に対して失礼な行為だ。もっと自分を愛して認めてやれよ。自分が気付くしかないんだ。
「自分の人生を誰かに丸投げするのは、自分に対して失礼な行為だ」
みたいな言い回しとか。
んで、
これってまだ、自分の側から見た時の話じゃないですか。
「その時、相手にとってはどうなのか?」っていう視点から語ってないし、そこまで突っ込んで言っちゃうのは怖いな…という感覚もありました。
対して、今回言及させていただくツイートは・・・
「自分を支える『核』は人間であってはいけない。『核』にされた人間が気の毒だ」
みたいな話なわけですよ。
これ、ストレートに言ってしまうと
「お前は自分のことばっかり考えてるけど、お前に依存された側の人の気持ちも考えろよ」
って話じゃないですか。
ここまで言っちゃって大丈夫なのかな?って気持ちは、正直ありました。
ここまでドストレートに言われたら、メンタルの弱い人なら激凹みですよね。
「メンタル激落ちくん」ですよ。
これねぇ~・・・
ある意味、衝撃だったわけです、私にとっては。
ここまで言い切って良かったのか、言い切るべきなのか、言い切ったことでどうなってしまうのか。
間違えてはいないと思うんです。
確かにその通りだとも思うんです、実は。
思っているけど、言わない方が良いような気がしてた、ってことだと思うんです、おそらく。
んでまぁ、そんなこんなで、ず~~っと2年くらい、ブックマークに寝かせておいたんですけど。
今回、こうして言及できて、内心ホッとしております。
なんつーか、ひとつ、肩の荷が下りたというか。
いや、なんだろうな、違うような気もするな。
件のツイートに付いていたコメントの中に「推しと心中するな、ってことだよね」的な内容のものがあった。なるほど。
私はアイドルのこととかあんまり興味が無いんで、詳しいことはよく分からないんですけど、
ようするに
「推し(自分の一番のお気に入りのタレント)」に、どっぷりハマっちゃうと、そのタレントが何か不祥事とか起こしたときに死ぬほどつらいから要注意だぞ、みたいなことなんでしょうかね。
芸能人を「自分の生きがい」にしちゃうと超危険ですよ、ある日突然、生きがいを失っちゃうこともあるよ、その時どうすんの?・・・みたいなことですかね。
でもまぁ、芸能人に依存する場合は、依存された側の気持ちは気にしなくてもよさそうですけどね。
「『核(生きがい)』にされた芸能人が気の毒だ」ってことは基本的には無さそうなので。
なぜなら、アイドル本人が「誰かの生きがいとしての役割を担うのが、アイドルの仕事である」という前提で、アイドルの活動をやってると思うので。
「生きがいにされて気の毒」ってのは、むしろ逆かと。
アイドルとかミュージシャンを志す人ってのは、多かれ少なかれ「誰かの生きがいになってなんぼ」という意識を、最初から持っているような気がしますしね。
むしろ「誰かの生きがいになることが誇り」というかな。
・・・・・・・・・
ん?話が脱線気味になってきてますね…。
できるできないはともかく「誰かを生きがいにしない方がいい」っていう感覚は、常に心の中に置いておいた方がいい
たとえばねぇ、よくありがちなのは
「女房子供のために頑張って働きます!」
みたいな言い回しとかさ。
これ、女房&子供に、生きがいを見出しているわけですよ。
もう一回、件のツイートを確認してみますか。
私は人生の師匠に言われた「自分を支える核を持ちなさい、仕事でも趣味でも。ただしその『核』は人間であってはいけない。人間は裏切るし変わるし、何より『核』にされた人間が気の毒だ」という言葉は本当に肝に銘じてるんだ。夫でも子供でも、とにかく人間を「自分の生きがい」にするのはやめようと。
— 櫛 海月 (@kusikurage) 2018年7月28日
夫でも子供でも「自分の生きがい」にするのはやめよう、と。
生きがいにされた人が気の毒だ、と。
「あなたは私の生きがいなんだよ」という言葉は、場合によっては、相手にとてつもない重圧を与える、相手に苦しみを与える、ということなんですねぇ。
この考え方、常に心の片隅に置いておくと、人との関わり方とか、距離感とか、意識できるようになるかもしれませんね。
実際に、家族や友人を相手に、精神的に依存しない生き方ができるかどうかは、また別の問題ですからね。
たとえできないとしても、心のどこかで意識しておくこと。考えておくこと。
それが大事なのかもしれません。
よく分かりませんが。
そろそろまとめますか。結論。っていうか、全然、まとまらなかった。
「心のよりどころ」を外部に求めない、っていうか、他者に求めない、ってことですかね。
「自分を支える何か」を、自分の外に求めない。自分の内側に構築する。
これ、無茶苦茶むずかしいんだけど。
「生きがい」を誰かの上に乗せない。
誰かに重荷を背負わせない。
私の場合、こういうことを何十年もず~っと考え続けてきた結果、人との距離がどんどん離れていったんですけどね。
精神的にも、物理的にも。これはこれで生きづらいっていう。
誰かに期待しないし、誰からも期待もされない、という立ち位置が、一番快適なんじゃねぇか?っていう気もしてきたね…。
『他人を自由にコントロールすることなどできないし、すべきでもない』という前提で生きていった方が、多分しんどくないです。
— 自由ネコ (@gattoliberoTW) 2020年5月19日
逆にしんどいときって、自分がその前提を忘れて『誰かや何かに期待したり、その結果として失望してる』パターンだったりしてな。
過度に期待すんな。過度に失望すんな。
結果、孤独を愛するスナフキンに憧れたりもしたけれど、スナフキンからは「オレのことを崇拝するな」と釘を刺される。
結局、何が言いたかったのか、よく分からなくなってしまいました。
あぁ、忘れてた。
ちなみに私は、相方の大福さんが「生きがい」かなぁ~。
依存してるなぁ~。
誰にも依存しない生き方ってむずかしいなぁ~。
いろんな人や、いろんなものに、ちょびっとずつ依存するのが一番、現実的な正解に近いのかもしれない。