映画レビュー『永い言い訳』の感想(監督:西川美和 出演:本木雅弘 竹原ピストル)
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映画「永い言い訳」を観てきました。
(原作・脚本・監督:西川美和 主演:本木雅弘)
え~~~と……。
とても良い映画だと思うし、私の好きな感じの映画でした。
ただね。
事前に自分の中でハードルを上げすぎてしまいました。
そういう意味で、辛口寄りのレビュー(感想)になります、ハイ。
ご了承ください。
若干のネタバレも含みます。
映画『永い言い訳』には、期待せずにはいられなかった。モックン出てるし、竹原ピストル出てるし。監督が西川美和だもんなぁ。
妻が死んで、一滴も涙を流せない男の、ラブストーリー。
出演:本木雅弘、竹原ピストル、藤田健心、白鳥玉季、堀内敬子、池松壮亮、黒木華、山田真歩、深津絵里
原作・脚本・監督:西川美和『ゆれる』『ディア・ドクター』『夢売るふたり』
私は元々、派手なドンパチを繰り広げる映画よりも、人間の内面を描くような地味~な映画が大好きでね。
こういう、「永い言い訳」みたいなのは大好物なんですよね。
基本的に自分から直接、相方に「あの映画を観に行きたい」と直訴することは滅多にないんですが、今回は超久々にリクエストしてみました。
(相方も完全同意状態。)
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。
その時不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。そんなある日、妻の親友の遺族―トラック運転手の夫・陽一とその子供たちに出会い、幼い彼らの世話を買って出る。誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが…
どのくらい、人間の内面を描けているのか?
なんかもう物凄く期待しちゃったわけです。
目を逸らしたくなるような、ドロドロとした闇の部分とかね。
こっちが
「もう勘弁してくれ~」
っていうくらい、
これでもかこれでもかと人間の本質を嫌な部分も含めてね、突き付けてくるんだと、思いながら観てしまいました。
結果、そうでもない…。
誰かが
「この映画を観た後、1週間立ち直れない…」
って言ってたのを事前にチラッと見かけたんでね、これは、よほどの映画なんだろうと。
勝手に自分の中のハードルをガッツリ上げて、変に構えて観ちゃったのがいけなかったのかなぁ~…と。
あとねぇ…。あんまり客観的に観ることが出来なかったかもしれない。津村啓に感情移入しすぎてニュートラルな立ち位置から映画を評価できないっぽい。
ナルシスト?というよりエゴイスト?の小説家、津村啓(つむら けい)を客観的に観ることが出来なかった。
私はあえて、幸夫ではなく、津村と呼びたい。
主人公の本名は衣笠幸夫(きぬがさ さちお)であり、津村啓(つむら けい)はペンネームだ。
(津村はプロ野球選手の鉄人衣笠と同じ名前であることに、極度のコンプレックスを感じながら生きている)
映画は「幸夫」を中心に描いている。
しかしね。
私には、もはや、
「幸夫」が小説を書く時にだけ「津村」を演じているようには見えなかったんですよ。
あまりにも長く、自分自身を偽り、オシャレで博学で知性的で女にモテるスタイリッシュな小説家「津村 啓」を演じ過ぎて、本来の人格であった「幸夫」は、その立ち位置を失っているように見えたんですよね。
すでに、どっちが素顔で、どっちが仮面なのか、分からない状態になっている。
むしろ、もはや津村の人格が、ときおり幸夫を演じている、というような、主従の関係が逆転してるようにさえ見えるわけです。
津村が大宮家で子供の面倒を見ている時でさえ、
「大宮家では幸夫を演じている」
ように見えるのです。
仮面だったはずの「津村啓」が、メインのキャラクターの地位を乗っ取っている。
私にはそう見えました。
ですからこのブログでは、「幸夫が…」ではなく「津村が…」と言及したい気分なのです。
津村には、私とよく似た部分も多かったように感じました。
(私はモックンのようなイケメンではありませんが…)
津村は結局、実を言うと、誰にも心なんて開いていない。
孤独なんですよね。
致命的なまでの孤独。
この地球上の誰一人にも、本当の自分を見せることが出来ない。
他者との間の壁を取っ払う方法がよく分かっていない。
どこかで人間を信用しきれていない。
きっと、事故死してしまった元妻、夏子に対しても、一度たりとも心を開いた事なんてなかったんじゃないかな。
勝手な憶測だけど。
徐々に冷めていったわけじゃなく、結婚当初から、本当の自分をさらけ出せないままだったんじゃないかと思うなぁ。
100%の信頼関係なんて、夏子との間にさえ、最初から一瞬も存在していなかったと思う。
何故かって?
津村はそういう男だからだ、としかいいようがない。
津村は、それなりにまともな社会人として振る舞って、出版関係者たちとも一応、関係性を築いてはいるものの、心なんて一ミリも許しちゃいない。
きっと孤独であることに慣れ過ぎてしまっている。
人と、心で、魂で、触れ合うことなんて出来ないし望んでもいないんだと思う。
自分の周りに張り巡らした壁を取っ払うなんて怖すぎる。
津村が、孤独を埋める方法はいくつかある。
女遊び。
酒。
そして、仕事。
津村はもともと、自らの耐え難い孤独を忘れるために執筆に没頭したんじゃないかと思う。
それが、創作の原点なんじゃないかなぁ。
少なくとも、小説家を志した初期の頃は。
(途中から惰性でモノを書くようになって、良いものを書けなくなったようだが…)
私には、津村の孤独がなんとなく分かるような気がした。
あんまり詳しく書くと読者をドン引きさせるような墓穴を掘ることになりそうだし、とても長い話になってしまうから、ここでは自分の話は語らないよ。
ただ、私には、客観的に映画を観ることがとても難しかった。
それだけはハッキリしている。
映画を観てきた。 #永い言い訳
— ネコ師匠@自由ネコ (@gattoliberoTW) 2016年10月29日
主人公の幸夫がメチャメチャ嫌な奴、という評判を聞いていたので、そういう先入観で観始めてしまった。
映画終了後、隣にいた相方に聞いてみた。
「幸夫よりもオレの方がよっぽど嫌な奴じゃね?」
相方は笑って「そうだね」と言った。
私は言い訳しなかった。
今、私には、自分のどうしようもなく情けない部分もすべてさらけ出せる相方(通称・大福)がいる。
津村が、電車の中で語った一言がしみる。
「自分を大事に思ってくれる人を簡単に手放しちゃダメだ」
大宮陽一のキャラクター設定にどうしても納得がいかない。
映画には、ある意味では津村と対照的な存在、竹原ピストルが演じるトラック運転手の大宮陽一が登場する。
大宮陽一は、無骨で、打算が無く、ストレートで、愛嬌がある。
誰にでも人懐っこく接し、初対面の相手とも、簡単に打ち解けることが出来る。
そして反面、計算高い部分が無いため、気が利かない男でもある。
津村とは、真逆とも言えるキャラクター設定、ということだと思う。
そういう意図があったはず。
対比した時の面白さ、という狙いがあったはず。
おそらく、現実の世界にも、こういう男はいると思う。
決して利口ではなくても誰からも愛されるような存在。
私が、「野狐禅」時代からの竹原ピストルのファンだからなのかもしれないが、どうしても、竹原が演じる大宮陽一が、能天気なバカには見えないのだ。
それが一つ目の納得がいかない点。
そしてもうひとつ。
もし仮に、大宮陽一のような男が実際に存在していたとしたら?
ちょっとイメージしてみてほしい。
天真爛漫で、誰からも愛される陽一には、きっと、小学生時代からの親友が何人もいるはずだ。
中学生時代の親友もいるだろう。
高校時代の親友も、社会人になってからの親友もいるはず。
職場でも、きっと同僚、上司、部下、みんなに愛されている。
酒場で出会った飲み友達も大勢いるだろう。
ご近所さんとだって、親密な関係を築いているはずだ。
誰とでも簡単に親しくなれて、性格が良い陽一の周りには、たくさんの「陽一を大事に思ってくれる人たち」が存在しているはずなのだ。
いや、いないとおかしい。
津村と大宮陽一とを真逆なキャラ設定にしたのであれば、
「孤独な津村」に対して「陽一も孤独」、という描き方は違和感がある。
どうして、妻が亡くなった時に、陽一には頼れる相手も話す相手もいなかったのか。
何故、会ったことさえない津村に声をかける以外に、傷を癒す術がなかったのか。
陽一のキャラから、その行動は導き出せない。
もしも、どうしても
「実は津村も陽一も孤独だったんだよな」
という展開に持って行きたかったのであれば、もうひとつ、陽一の描き方にひねりが無いといけなかったように思う。
実は陽一は酷い酒乱だとか、もっともっとバカっぽく描くとか。
亡くなった妻との間にも、すれ違いや確執が無ければならなかったように思う。
妻は息子にお受験をさせて
「パパのようにはならないでね」
と、陽一に対するマイナスのイメージを息子に植えつけ続けていた、とか。
例え陽一の方は妻や子供を愛していたとしても、
逆に妻や子供は陽一に好意を持っていない「一方通行」の関係だったとか。
バカな陽一は毛嫌いされていることに最後まで気づいていなかっただけ、みたいな。
陽一の孤独を暗示させる何かが無いと、天真爛漫でどこまでもフレンドリーな陽一でしかない。
陽一のような人間は確かに存在すると思うし、
ああいう性格の男の日常もありありと想像できるが、
たとえ家族を失ったとしても、あんな状況には、きっとならない。
陽一のような人間を周りが放っておくほど、この世は殺伐としていない。
妻が事故死した後に、地元の友達、学生時代の友達、飲み友達、近所のおじさんおばさん、親戚連中、みんなで寄ってたかって大宮家を盛り上げてくれるだろう。
世の中、捨てたもんじゃないよ。
あんなに陽一が孤独であるはずがない。
ようするに、リアリティを感じなかった。
「いや、この感じにはならないでしょ」
そう思ってしまいました。
もしかしたら、原作では、もうちょっと違う感じなのかも知れません。
まとめ。映画を観る前に期待しすぎない方が楽しめる!
今回はあまりにも、自分の中でハードルを上げすぎましたね…。
普通に観たら、間違いなく面白い映画です。
もともと、周防正行監督とタッグを組んだ、
「ファンシイダンス(1989年)」や
「シコふんじゃった。(1992年)」
の頃から、モックン(本木雅弘)のこと大好きなんでねぇ…。
「ファンシイダンス」ではお坊さんを演じ、「シコふんじゃった」では(相撲の)力士を演じたモックン。
両作品とも名作です。
しかも今回の「永い言い訳」には竹原ピストルも出ちゃうし、監督が西川美和だもんなぁ~。
ハードル、あがるっちゅうねん!
ちなみに、西川監督の「夢売るふたり」は、私の中では邦画ナンバーワンかも知れない。
『ディア・ドクター』などで高評価を得た西川美和監督がメガホンを取り、松たか子と阿部サダヲが結婚詐欺に手を染める夫婦を演じる異色のラブ・ストーリー。小料理屋を営む夫婦が火事で全てを失ったことから始めた結婚詐欺を通して、複雑で深遠な男と女の関係を描き出す。主演の二人に加えて、結婚詐欺に引っ掛かる女たちを演じる田中麗奈や鈴木砂羽、木村多江のほか、以前西川作品に出演した香川照之や笑福亭鶴瓶などが共演。うそをテーマに人間の業をえぐり出す西川監督らしいストーリーと、豪華キャストによる演技に期待が持てる。
「もしかして、このシーンが伏線で、こっちで回収してる?」
みたいな部分にセンスを感じます。天才か?って思いますね。
キャストも最高。
ネコデミー大賞。
あ~!そうだ。忘れてた。
津村のマネージャー役の、岸本信介を演じた池松 壮亮(いけまつ そうすけ)さんは、今後、きますね!!
間違いなく!
なんなの、この人の演技。
天才か。
って思いましたから。芝居上手すぎ。
多分、堺雅人みたいなポジションまで行くだろうな~。
池松 壮亮は要チェックです!
(もうすでに有名な俳優のようだが…)
『永い言い訳』、非常に味わい深い映画でした。
西川美和監督の 『夢売るふたり』はネコデミー大賞レベルの名作。
『ファンシイダンス』は「映画俳優・本木雅弘」の出世作といって過言ではないと思う。周防正行監督。
周防正行監督とモックンがふたたびタッグを組んだ『シコふんじゃった。』も最高でした。