こんなツイートを発見。
ザックリ言うと
オシャレする努力もせずに「本当の自分を認めてほしい」というヤツは傲慢
…という感じの内容。
ツイッター上では、名言!刺さった!など、支持派が多いようだけど、私はすごく、モヤモヤしたんだよね。
んで、はてなブックマークを見てみたら、案の定というか否定派で埋めつくされていた(笑)
どうやら、アニメのキャラ?のセリフらしいんだけど、どうにもこうにも、名言とは思えないんだよなぁ。
正確に言うと、こんな感じらしい。
オシャレする努力もせず、本当の自分を認めてほしいなんて、傲慢なだけっしょ。いっとくけど、外見は内面の一番外側だから。
詳しいことは知らないんだけど、そもそも「アパレルメーカーの社長」?という設定のキャラクターが発したセリフらしいんだよな。
ということはさ、当然、
「洋服ガンガン買いましょう!うちのブランドの服買ってね!」
という意味合いを含んだセリフってことになるわけですよね。
中立の立場、ニュートラルな立場からの言葉ではない。
扇動してるわけ。購買意欲を煽ってるわけ。
んで、バカな奴はアパレル社長の言葉を鵜呑みにして服をいっぱい買っちゃう、っていう事になるんだろうけど。
「名言!」だとか、「良いこと言ってる!」ってのは、ちょっと違うんじゃないかな…って気がしたんだよねぇ。
まぁあくまでも私個人の感覚なんですけどね。
具体的に、この名言?迷言?の、どの辺がモヤッとくるのか説明してみる。
もう一回、確認してみる。
オシャレする努力もせず、本当の自分を認めてほしいなんて、傲慢なだけっしょ。いっとくけど、外見は内面の一番外側だから。
まず、根本的にね、オシャレ云々を抜きにしてさ。
そもそも、
「努力しなければ、認めてもらえなくて当然なんだ」
っていう理屈から始まってるわけよ。
でね、私はそれ、ちょっとイヤなんだよね。
「ある一定の合格基準をクリアしなければ、自分は認めてはもらえない存在なんだ」
っていう発想に、繋がっていきそうだからさ。
これ、非常に危ういと思うのよ。
自己肯定感の話に繋がっていきそうでさ。
私はね「努力しなければ認められなくて当然」とか、あんまり言いたくないんだよね。
むしろその逆のメッセージを届けたいと思っている。
「頑張ってる自分には価値があるけど、そうじゃない自分には価値がない」そういう考え方を学校や親や社会から刷り込まれてきた。
— ネコ師匠 (@nekomasterTW) 2016年9月3日
でも本当はさ、
頑張っていてもいなくても、どちらの自分の事も同じように愛してあげて良かったんだよね。
自分自身が、自分の一番の味方になってあげよう。
あとは、はてなブックマークについてたコメントからいくつかピックアップしてみましょうか。
コピペではなく、ニュアンスをザックリ。
相手の事情も知らずに、いきなり「努力が足りない」とか言い出すヤツはろくでもない。
「傲慢」なのは、こういう事を言うあなたです。
これは正論っぽいからむしろ、たちが悪い。
「オシャレ」と「身だしなみ」は違う。
「流行を追うこと」と「身だしなみを整えること」は違う。
ジョブズやザッカ―バーグは、同じ服ばかり着てたけど。
オシャレは単なるスキル。内面や外見と関係が無い。
・・・・・・・・・
とまぁ、こんな感じ。
これからオレなりの「オシャレ論」を展開する前に言っておきたい。言っとくけど、オレ、昔はめっちゃオシャレさんだったからな。
オシャレに興味が無いおっさんが何を言っても説得力が無くなっちゃいそうなので、一応、断わっておきますがね、私は昔、超~~オシャレ野郎だったんすよね。
あ、ゴメン。超~でもないか。
とにかくね、若い頃は、稼いだお金の大半は、洋服につぎ込んでいましたから。
(まぁ全然稼いでいないんで安物しか買えませんでしたけど)
高校時代も好きな服を着たいから、あえて制服のない学校に通ってたしね。
ファッション雑誌とかさ、同じ本を何十回も舐めまわすようにして読んでましたね。
メンズノンノとか、チェックメイトとか、ホットドッグプレスとか…。
センスがイイかどうかはともかくとして、とにかく「ファッション大好きマン」だったんですよね、10代、20代。
唯一の趣味は洋服、って感じで。
そんな感じだったからさ、まぁなんというか「ファッションとは何ぞや?」みたいな自問自答も、散々、繰り返してきたわけですよ。
もう、自分の中で何周も何周もしてさ。
んで、自分なりの答えは出ました。
え~~と。
何から話せばいいかな…。
ありきたりだけど、一言で言ってしまえば「ファッションとは自己表現」なんすよね。
まぁ人それぞれなんで、別にイイんですけど、
奇抜な格好をする事を、お洒落だと捉えている人もいる。
流行を敏感に追うことに、カッコよさを感じている人もいる。
でも、私はそうは思ってなくて。
散々「オシャレ」とか「美」とか「自己表現」とかについて考えた結果、私にとっての「カッコよさ」がハッキリしてきた。
私が考える本当のカッコよさとは、自分なりのスタイルを確立していることです。揺らがない「THEオレ流」を持っている事です。
どんな問題でも、突き詰めていくと哲学的な話になっちゃうんですけどね、当然、ファッションについてもそうなるわけです。
なんでその服を着てんの?
なんでその帽子を被ってんの?
なんでそのスタイルなの?
みんなが着てるから?
雑誌に載ってたから?
これが流行ってるって店員に言われたから?
・・・・・・・・・
自己を確立できていない場合、流行に翻弄されるだけです。
モノトーンが流行ればモノトーン。
パステルカラーが流行ればパステルカラー。
ロン毛が流行ればロン毛。
モヒカンが流行ればモヒカン。
永久にどこにもたどり着かない。
自分が何を着たいのか、自分がどうなりたいのか、自分は何が好きなのか。
それを分かっていないと、ただひたすらファッション業界に搾取されるだけです。
本当に揺らがない自分を持っている人は、流行に左右されないんですよ。
流行を追いかける必要がない。
自分が好きな服を知っているから。
自分に似合う色、形、素材、テイストを知っているから。
「自分のスタイル」を持っているってのは、そういうこと。
何が流行ろうが、そんなの知ったこっちゃないんです。
私はこの服が好きだから、この服を着ます。
来年も再来年も、着続けます。
そういう事なんです。
それでいいんです。
私が「この人、素敵だなぁ~」と思う人たちは、みんな、流行を追っていません。
みんな独自のスタイルを確立しています。
ちゃんと、すでに「私はこれが好き」を知っている人たちばかりです。
流行を追ってる人ってこんな感じだと思うんだけどさ。
ワイドなパンツが流行ってるので太めをはきます。
タイトなパンツが流行ってるから細めをはきます。
・・・・・・
ん?自分がそれを好きかどうかは二の次?
どっちの方が自分の体形にあっているかは無視?
アナタ…踊らされてますよ…?
もちろん、私がファッション業界の人間なら、絶対にこういうことは言いませんよ。
無理矢理にでも「流行」というイリュージョンを創り出して、そこに幻の価値を生み出すことで生計を立てているわけですから。
大衆に目を覚まされちゃ困ります。
いつまでも「流行に敏感でオシャレなアナタ」でいてくれないと困ります。
我々はどんどん作りますから、「流行に敏感でオシャレなアナタ」は、どんどん服を買い替えてください。
流行のサイクルをどんどん速めるほど、儲かる仕組み。うふふ。
先ほどファッションは自己表現だと言いました。その人の生き様は、多かれ少なかれ、外見に出る。
例えばね、めちゃめちゃひきこもりで、ず~っと家でゲームばっかりしてる人が、全身、アウトドアブランドでキメてたらどうですか。
おそらく、服に着られちゃってる状態だと思うんですよね。
似合わないはず。
でもね、例えば…
登山が趣味の友達と、街なかでばったり会った時に、相手がアウトドアウェアを着てたら…きっと違和感ないと思うんですよね。
むしろ、似合ってるはず。その人らしさを感じるはず。
しっくりいくはずなんです。
何故なら、その人の背景、生き様を反映しているから。
例えば…
テレビの「クレイジージャーニー」に登場する登山家とか冒険家の人たちは、スタジオに来るときも、だいたいアウトドアウェアに身を包んで登場しますけど、全然、違和感が無い。
むしろ冒険家がスタジオに登場する際、スーツにネクタイだった方が、違和感ありまくりになってしまう。
将棋の棋士が着物を着てるのを見ても違和感ありませんよね。
サーファーが日焼けしてるのもしっくりきます。
自分が何者なのか、どうやって生きてきたのか。
それを反映している外見は、すなわち自己表現だと思うんです。
ですから例えば、
いつ見ても、だらしないスウェットの上下を着ている人でさえ、何も表現していないわけではないんです。
実は「そういう生き様」を反映しているんです。
いつまでも流行を追い続け、翻弄されまくっている人でさえも、実は「そういう生き様」を表現しているということです。
「まだ自分のスタイルを確立できていない私」を表現していると言えるかもしれませんね。
例えば私自身のことで言うと、もうね…ジーンズが全然、はけなくなりました。
自分の中の価値観にフィットしなくなってるんです。
今の私は「とにかくゆるくゆるく生きたい」という気持ちでいっぱいです。
のんびり、ダラダラと、軽やかに、適当に、ふわりふわりと生きていきたい…そんなことばっかり考えて日々を過ごしています。
そうするとね、デニム素材を身につけたいという気持ちにならないんですよね…。
丈夫で、汚れても破れても様になるデニム。
でも伸縮性はないし、ゴワゴワしてるし、重たい…。
今の私が、服を選ぶ時に気にするのは、
例えば、
動きやすいかどうか。
肌触りが良いかどうか。
軽い素材かどうか。
涼しいかどうか。
そういうことの方が、よっぽど、重要なポイントになってきてるんですよね。
自分の中で。
ふわふわと空に浮かぶ雲のように、ゆるやかに生きたい…とか思いながら、分厚くてゴワゴワして、動きにくいジーンズをはいている、っていうのは、どうにも違和感があるわけです。
自分の中の価値観を全然反映していない服を着てるということ、すなわち、しっくりいく自己表現ができていない状況に、なんというか、自分らしく生きてるという実感がしないのです。
服を誰かに着せられているような、変な感じがするんですよね~。
結局ね、最近では、アジア系というかな、エスニック系というかな、タイパンツとか、そういうダボッとした服を着ることが多くなりましたね。
な~んかね、ゆるくていいんだよな~。
肩に力が入ってない感じがして。
「あぁ、このほうが自分らしいなぁ」って思うんすよね~。
靴も靴下もほとんどはかない。極力、サンダルね。
どこからどう見ても「サラリーマン無理」なオーラ出てます。
「この人は、まともに会社勤めしたこと無さそうだな」って、一発で分かる格好してます。
まぁ、自分らしくていいかなって思っております。
生き様、反映してるから。
なんとなく…まとめますか。結局、人は外見よりも中身なのか?
一言でズバッと言い切りましょう。
人は中身に決まってます。
くだらん。
問い自体がくだらん。
中身よりも外見が重要だとするならば、盲目の人はどうやって相手を判断すんの?
服装や髪形が他者を判断するうえで最も重要な要素なわけがない。
目の見えない人は、初対面の人にまず、どんな服を着ているか、優先的に尋ねるだろうか?
相手を知りたいと思った時に、そんなところに最大の重点を置くだろうか?
答えは…NO!
ファッション業界でご飯食べてる人およびその周辺の人間は「人は外見です!」っていうでしょうけどね。知るかそんなもん。
ブランド崇拝者の中には、他人が脱いだジャケットのタグをこっそり確認して、どこのブランドなのかチェックし、その人の価値を品定めするような人間もいますけどねぇ…。
そういう人は大概、ショボい人間ですよ。(オレ調べ)
もちろん、先ほども言った通り、外見から得られる個人情報も少なくありません。しかしね、所詮、見た目の良し悪しなんて、枝葉の部分に過ぎません。
ものすごいイケメンが交通事故に遭って、顔面がグチャグチャになったとしたら、その人の、人としての良さが無くなったことになるのだろうか。いや、ならない。
その人は、その人のままですよ。何も変わらない。
イケメンだろうとグチャグチャだろうと。
ちなみに。
散々「人は中身!」って言っておいて、アレなんですけどね…。
「私は中身が良い人間ですよ~」とは一言も言っておりませんからね。
どっちかというと、心技体、全部そろってダメだからなぁ…。
まぁ、ダメなまま生きていきます。
非の打ち所のない人を演じない。不完全な自分のまま堂々と生きる。
— ネコ師匠 (@nekomasterTW) 2017年5月13日
たとえそれが、どれだけ無様なものだったとしても、偽らず、目を逸らさず、言い訳せず、受け止めること。
大切なのはその覚悟。 pic.twitter.com/Nfv8JzufAZ
長くなりました。
最後まで読んでくれてありがとう!